[SIJ: 20621] 令和二年度円坐影舞稽古年間予定のご案内

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2020年 1月 31日 (金) 12:10:15 JST


皆様へ。

円坐影舞稽古年間予定のご連絡です。


昨年の関ヶ原古戦場円坐の折に資料館で見学した各武将の布陣図を模して、1月14
日の時点での、今年一年間で合わせて一週間以上円坐を開催する主催者の円坐だけを
取り出し、円坐舞台合戦布陣図として、時間性を無視した絵図のように言い表してみ
ることにしました。


未二観の15分間のように、今年一年間の、令和二年と呼ばれる時空間を結界された
一つの円坐舞台とみなしてみます。
実施することが既に決定済みの円坐舞台を、主催してくださる方々の温顔を偲びつつ
イメージを言葉に乗せて配置すると、お互いの意図の上ではもうすでに存在している
生きた四次元の像として今年の円坐舞台の景色を展望することができます。


僕はホームページを作っていませんが、これが現在の僕と仕事の動きを示すホーム
ページみたいなものだなと思います。
あるいは僕が今出会っている方々の生き様や人生を含む大きな枠組みでの「セイム
ページ」かな。
一方向に情報を伝えるページではなく、実際に関わりのある人物にその関わりのまま
ふれているようなページです。


スコットランドに歴史的な勝利をした日本のラグビーチームの勝因は、試合終盤のあ
る時間帯に、チーム全員がひとつの「絵」を見ていた状態があったことによるそうで
す。逆転のスコットランドと呼ばれる世界屈指のチームが後半猛烈な追い上げをみ
せ、いつも通り日本に勝てると信じた時、日本のひとりの選手が「もう本当に後がな
い、死ぬ覚悟でいった」と述懐するひとつのプレー(行動)をみせます。


他のメンバー全員がその行動を自分自身への「メッセージ」だと感じ、次にどう動く
のか、いわば次の瞬間にどんな「生き方」をするのか、同じ「絵」を見て同時に動く
状態に入ります。これを「セイムページを見る」と表現していたのです。
体格も大きく体力にも勝るスコットランドの選手たちは、逆転できるはずの最後の時
間帯に入って「我々は勝てると信じていたが、日本はますます強くなっていった」と
いう体験をします。両者一歩も譲らぬ攻防はもはや勝利を度外視した「仕合い」とな
り、両チームの選手たちが「自分はこの試合を経験するために今までラグビーをやっ
てきた」と感じるようになります。
このラスト20分間は、会場の観客も選手たちと一体となって、ともに「そこにい
て」同じ「時間」を生きていました。


僕は、これは僕にとっての円坐や未二観や影舞と同じだと感じました。
円坐舞台や未二観や影舞の物理的熱量はこの試合の両チームの選手たちに比べれば小
さいかもしれません。
しかしそれは個々の選手の長年のコミット(行動)とラグビーの試合の構造とワール
ドカップというさらに大きな枠組みが大きな熱量をもたらしているからです。
熱の質は、まったく同じです。


僕は小学校から大学まで野球をやっていましたが、それだけ長い間続けたのは、そこ
に僕が求めていた「生きている時間」があったからです。
同じ理由で円坐と影舞と未二観を長い間続けています。
時間が「量」ではなく「質」に転じた時、時間は外にあって我々を縛る客観的な時間
から、内側で新たに生まれ生きて行動する主客未分の別次元の「時間」に転位しま
す。
これを指して「未二観」と名付けました。
未二観があるとき、それはグループではなく、「円坐」になります。
未二観があるとき、それは指を合わせる踊りではなく、「影舞」になります。


以下の「布陣図」にお名前を掲載させていただいたどの「主催者」とも、僕は僕の妻
や娘、息子の家族4人全員でお付き合いさせていただいています。
彼らは僕にとって「事務局」ではなく、現在の人生を分け合って同じ時間を生きてい
る方々です。
それを仲間と呼ぶのか友と呼ぶのかは重要ではなく、人生の後半のこの時間帯で「同
じページをみている」と僕が感じている方々です。
僕にとってはいわば同じグラウンドでプレーしているチームメイト同士なのです。
我々はこの人生のために今まで存在してきたと言えるような未二観の15分間があり、
影舞の4分間があり、円坐という「瞬間」があります。


ではNHKの時代劇のナレーションぽく。。。

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令和二年、日本と東南アジアの円坐舞台(部隊)守人(守将)は群雄割拠の状態と
なった。
以下はそれを展望する勢力図と布陣図である。


まず舞台背景左手には「バンコクまろうど円坐影舞」の三つの高峰が連なって聳えて
いる。
11月13日から23日まで10日間続くインドシナ半島の円坐影舞山脈だが、前半はタイ在
住軍による通いの円坐影舞、後半は日本からの遠征軍のための合宿円坐という地形に
なっている。


この陣地を死守し勝利を約束する円坐守将は、西軍歴戦の猛者オスカル中山久子氏
(所領バンコク)と氏が全幅の信頼を寄せるタイ人副将、円坐菩薩守将ニティパ・ト
ンプチョ氏(所領バンコク、タイ北部地方)。
円坐と影舞と未二観はタイ北部に残る本当の仏教の質と同じものだというニティパ氏
と、キリスト教を背景に持つまろうど城主オスカル中山氏、そして「受けたもう」の
文字を赤く染め抜いた旗印で南シナ海を席巻する知略縦横の海賊山伏守将山下徹氏
(所領広島・宮島)。
この三円坐守将と三つの精神的な法脈が出会って結界するバンコクまろうど円坐影舞
の布陣は古今無双の鉄壁円坐陣である。
先頃、山下軍の主力宮島水軍千五百艘は一斉に赤い旗印を掲げバンコクへ向け出港し
た。


背景右手には、日本の妙高高原での8日間にわたる円坐舞台高原が広がっている。令
和二年も押し詰まった12月12日に、今年の日本最大の円坐合戦舞台の幕が上がる。
東軍の重鎮、公達守将菅野美和氏(所領茨城)は「未二観万葉15分間和歌集」の編纂
を行った円坐歌人守将である。
このたび勅命により歴史的な日本最大規模の妙高高原円坐影舞歌合戦を担うことに
なった。
祖先伝来の赤兜を頂いた歌人守将は騎上端然と、菅野軍主力2万5千を率いて暁の筑波
城を進発した。
大阪に潜伏し菅野氏の食客として再起をうかがっていた同じく東軍、烏天狗玉城洋介
氏(元所領神奈川)は、「一命をもって御恩に報い奉る千載一遇の好機なり」とすで
に手勢5百を率いて現地に着陣し兵糧の確保と出城築城を開始した。


さてバンコクまろうど円坐と妙高高原円坐の左右二つの円坐山岳地帯から舞台中央に
下っていくと狭い盆地がある。
ここが令和元年に引き続き今年も日本の東西円坐守人武将の決戦地となる関ヶ原古戦
場円坐である。
「9月22日の彼岸を期して関ヶ原にて相まみえ手合わせ願う!」との檄は日本各地に
届いており、新旧の守人衆が動き始めた。


この関ヶ原古戦場円坐は、期間はたった2日間で終わってしまう短い円坐合戦だが、
守人衆にとっては試金石となる決戦地である。
というのも円坐守人の仕事は長さではなくその質が命だからだ。


実は関ヶ原古戦場円坐は「秋の彼岸円坐」の別名である。
2月20日に「五節句円坐・人日の節句円坐影舞」で勇躍進軍を開始する西軍守将「麒
麟」松岡弘子氏(所領大阪高槻)は、4月桃の節句円坐、6月端午の節句円坐、7月七
夕の節句円坐、10月重陽の節句円坐と五度にわたって節目の円坐影舞戦を仕合い、
「春の彼岸騎馬円坐(彼岸タクシー)」「高槻円坐影舞・様(サマ)の祭り」「土佐
室戸・阿波伊島・讃岐三豊・越後佐渡のドサ廻り円坐影舞」をはさんで長躯転戦しつ
つ、9月22日の秋の彼岸円坐すなわち関ヶ原古戦場円坐に間に合わせて着陣するとい
う疾風怒涛の進撃をみせる。


円坐家族橋本一家は松岡騎馬部隊千五百の精鋭に騎乗随行し、一世一代、二世二代の
円坐舞台道行き合戦をともに仕合う。
関ヶ原古戦場円坐は円坐家族家長の橋本久仁彦がかねてより夢想していた東西守人を
言祝ぐための円坐影舞合戦舞台であり、円坐守人すなわち円坐詩(歌)人の「天下一
武道会」である。


「天下一」の「いち」は「いのち」の転化、「武道会」は影舞なので「舞踊会」とす
れば「天下いのち舞踊会」となる。
「口承即興〜縁坐影舞空間 坐・フェンス」でともに「きくみるはなす縁坐舞台」の
道を歩んできた盟友松岡弘子氏が仕切りを行う秋の彼岸円坐と、橋本久仁彦の東西守
人天晴れ対決の夢が重なり、一年(一念)を通した円坐魂の流れの節目、秋分の日に
成立する関ヶ原古戦場円坐は、彼岸到達を目指し合い、迷いを転じて目覚まし合う転
迷開悟の円坐守人ハレ舞台である。


一方、令和二年度円坐舞台の右そでに目を転じれば各地の農民兵が混在する一軍が見
える。
彼らは円坐影舞東征軍として白河の関を越え奥の細道へと向かう決死部隊、名付けて
みちのく円坐影舞義勇軍である。
その中央、馬上粛々と采配を振るう武人は、義と勇の東軍守将松野(畔上)裕子氏
(所領福島・白河)。
早くも1月11日から3日間、群馬県にて「四万温泉裂け谷の会議」を挙行し、呼応した
東軍諸氏とともに進撃を開始した。
なぜか西軍の円坐家族橋本一家と麒麟松岡弘子氏が四万温泉義勇軍に加担していると
いううわさが流布している。


周辺諸侯も馳せ参じその数3万に膨らんだ義勇軍は、うわさが事実であれば東西連合
軍となる。
3月6,7,8日には白河の関を越え、郡山、丸森をうかがい、先の洪水で疲弊した阿武
隈川流域を見舞いつつ、8月28、29、30、31日には、東軍の韋駄天益子智美氏(所領
東京板橋)の精鋭2千騎と合流し南三陸方面へ撃って出る。


令和二年度円坐舞台の手前側、観客席に近い舞台右手には湖があり、水軍「澄まし
処」を率いる知将吉橋久美子氏(所領豊田)が勢力を保っている。この湖から発する
水量豊富な流れ「なき人の面影とともに生きる川」は2月22,23,24日と次第に
川幅を広げつつ7月17,18,19日には舞台左手の円坐山里、美濃の国恵那中野方から
の流れと合流し11月6,7,8日には「なき人」と「いる人」との川の流れが反転する
大自然の逆流現象を見ることが出来る。東西の旗印は未だ不明。


岐阜県恵那の中野方は、円坐戦国時代の雄、長江賢太郎一族が難攻不落の山城「円坐
影舞ときのうた城」を構え、4月6月8月10月に二泊三日で「円坐守人という生き
方」同じく5月9月12月には「農に生きる円坐(田楽円坐)」を実施、遠征出撃はせ
ずに各地の守人衆をおびき寄せ、中野方谷で挟撃する円坐戦法をとる。

山の幸豊かな中野方では四季を通しての万葉円坐影舞歌合戦が可能である。一領具足
と呼ばれる土佐兵に似た半農半兵の民が、稲作に従事しながら円坐守人稽古に余念が
ない。
育ち実る稲とともに稽古するので「円坐守人中野方稲妻稽古」と呼ばれ、身体壮健、
質実堅固で円坐兵士としての水準は高いが、半農半兵の性質上、農繁期の動員は困難
で、関ヶ原古戦場円坐決戦には参戦しないと見られている。


豪胆無比の長江一族の円坐戦闘部隊の中でも「発費(はっぴ)隊」と呼ばれる「お犬
部隊」は全国唯一の戦闘犬部隊であり、その威力は近隣の国々に鳴り響き「長江賢太
郎に過ぎたるものふたつあり、笠置の山とはっぴー犬」の勇名は津々浦々までとどろ
いている。
しかし、時々縄を抜けて逃亡し味方の家畜を襲うことがあり、その後始末に経費が掛
かるので「発費」と呼ばれている。


令和二年度円坐舞台中央最奥から右手後方の妙高高原円坐舞台を迂回して、マシラの
ごとく木々に紛れながら疾駆する特異な軍勢がある。
5月15日〜18日の四日間に行われる信州小谷村大網の山岳円坐衆による山駆け稽古で
ある。大網集落は長い歴史を持つ村だが、ある時「OBS」という異国の教えを身に帯
びた忍びの者どもが入ってきた。村人を助けて平和に共存しているが、実は「OBS」
とは「大きく」「ぶっ飛ばせ」「死ぬ気でやれ」という意味を持つ呪言であり、いざ
山岳円坐戦となるとたぐいまれなる戦闘力を発揮する。11月1,2,3日には大網未二
観稽古も行い、文武両道に秀でた注目の円坐守人軍勢であるが、東西どちらに付くの
かその動向は読めない。
木曽義仲の再来と謳われる猛将由井義仲氏(所領大網・横浜)が、名参謀前田浩一氏
(所領大網・大阪・和歌山)を擁して大網円坐影舞忍軍を率い今年ついに大網土の家
城から出撃する。


ここで令和二年度円坐舞台の全景を改めて見渡してみると、今まで述べてきた布陣図
の間を縫って新たなのろしが上がっていることに気づく。


円坐舞台手前左の遠州浜松では3月4,5日に博徒池上組の任侠守将池上利也氏が領主
を倒して兵馬を組織、関ヶ原へ向けて進軍を開始。
裏日光で4月17,18,19日に円坐影舞臨戦態勢に入るのは近年昇竜のごとく勃興した
日光コノハナサクヤビメ守将桜井あつこ氏。
愛知豊橋城主で野戦では当代随一の賢守将武田芳男氏が5月29,30,31,日を期して
蓬莱山に円坐出撃。
宮崎川南城では西軍の俊英井上洋菜氏が7月3,4,5日に九州勢で最も早く円坐影舞合
戦を開始。
首都東京で過去多くの円坐合戦を仕掛けてきた世田谷の智将中尾聡志氏は今年も10月
24,25,26日に東京円坐合戦を仕掛ける模様。


おっとここで雄たけびをあげながら観客席中央の花道を舞台へ向かって駆け込んでく
る円坐影舞軍がある。
2月14日から7月10日まで毎月一度の波状影舞攻撃を得意とする「だったら東でもやっ
てしまえ!」軍だ。
抜刀して騎上先頭を駆ける三日月兜は言わずと知れた東の韋駄天守将益子智美氏(所
領東京板橋)である。
少し遅れて2月15日から同じく円坐未二観波状攻撃で呼応する闘将今西道子氏(所領
千葉・大阪)の軍勢が続く。
東金城を拠点とする今西軍は東軍の中でもあなどれない兵力を持つが、城主今西道子
氏の出自は大阪であり、もし関ヶ原決戦において西軍につくならば「反応軍」として
歴史に名を残すことになるであろう。
しかし二守将ともにその気性からすれば間違っても関ヶ原において「傍観軍」に終わ
ることはなく予断を許さない状況である。


さて、各地で決起する有力円坐守将の動向に対して諸国の反応はいかに?
伊勢湾を仕切る孤高の津の一族は動くのか?
待望の御世継誕生に沸く長崎思案橋城の名家片山家は?
葉隠の不屈の魂で上洛を狙う佐賀濱田家は?
さらに福井武生の命知らずの念仏衆長慶寺一派は?
あるいは丹波篠山に頑強な勢力を保持する狩猟採集建築軍団佐田半田のでんでん兄弟
の動向は?


舞台楽屋口から上記円坐諸守将の時の声が響いている。


加えてこの舞台には開演当初から音だけ聞こえて姿をあらわにしていない不穏な空気
がある。
難波の国大阪と大和の国奈良の境に位置する生駒山石切の斜面地に陣を構え毎月一泊
二日の円坐影舞未二観の戦(いくさ)稽古を密かに続けている謎の軍勢の兵馬の声で
ある。
石切城主の円坐家族橋本一家は各地を転戦して西軍の旗手であるかのようにふるまっ
ているが、その石切城には東西両陣営の守将や武士どもが参集し、なぜか温泉に入り
酒を酌み交わしているとのうわさである。
しかしその姿を実際に見たものはいない。生駒山を背にし大阪平野を見下ろす石切の
地は空き家が多く夜は暗い。
時折生駒山を吹き降ろす風音に混じって兵馬の喧騒や酒宴のさんざめきを確かに聞い
たと土地の者は言い合っている。


いったい関ヶ原古戦場円坐決戦とは何なのか?名にし負う歴戦の円坐守将たちは実在
するのか?そしてそもそも円坐影舞とは?
謎が深まる令和二年度の円坐守人戦国絵巻。
その真実が記された『円坐影舞令和山月記(鬼)』は逢坂の関のとある石塚に隠され
たという伝承が残る。
今も毎月二度、石塚があったとされる大阪市西区の千代崎町では子孫や有縁の者が集
まって円坐と影舞を奉納している。


なつくさや つわものどもが夢のあと
        南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏。  合掌。


     令和二年度円坐戦国絵巻口上 橋本一家 はしもとくにひこ(Sw.Deva 
Premi)



ある円坐守将から御感想をいただきましたので附記いたします。

「円坐守人戦国絵巻が、
まるで動きだすかの様に、
スペクタクルに見え始めました。

各地の景色と、面影が溶け合うと、
人間の業が生み出す戦さが転じて、
自然と一体化し風景と化してゆく。

大自然の一分である自分のように、
お家や諸国、戦場や墓という様な、
魂を宿す、ある種の「人と地の目印」に、
自分が映りこんでいくように感じました。

いつまでも風化することのない、
普遍的な大きな一枚の戦国絵巻。

同じ一枚の戦国絵巻を見て、
時空を駆け抜けゆく円坐戦。

一人でありながら一人でない、
円坐という自分道に響き渡る、
雄叫びにも似た時の声に、
背筋が伸びます」。

           以上。




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