[SIJ: 20384] リーラからの贈り物
Niru Hiramoto
jagpinks @ gmail.com
2019年 10月 31日 (木) 17:47:01 JST
「瞑想には、二つの段階しかありませんー
ハートが開くまで、本当の意味での瞑想が起こることはありません(リーラ)」
リーラ(ワドゥダ)は、
東京で一緒にハート瞑想インテンシブのワークをしているビジェイの、ハートの師匠です。
この文章を読んで、
「ハート瞑想の解説、瞑想始める最初の方で知りたい内容でした。今までいろんなことをやって苦しんで来て、やっとその触りまで来て。
ずっと、ハートというのを軽視していましたから」
と書いて下さった方がいます。
本当に一生懸命探して来られたのが、伝わって来る方です。
「私も、軽視しているつもりすらなく、ただ知らずにいて、今本当に驚いています。
遅くなったけど、今であっても、始められて本当によかったと思っています」
そうお返ししました。
早過ぎることも、遅すぎることもないはずです、出会えた時が、最善の準備ができた時と思います。今、これほどに喜びを感じられているならば。
神戸のビジェイが、このOSHOミスティシズムの内なる科学をベースにしたハート瞑想を日本でシェアしてくれています。
今週末の東京では、そのインテンシブの二回目がハプンします。
彼がこのグループを「OSHOライフセーバー(存在の救命具)」と名付けた意味が、
リーラ(ワドゥダ)が残してくれたこの一文を読んで、感じられた気がしました。
瞑想の旅をしているどなたにも読んでもらえたらと心から思う、
本当に探求した先達からの、贈り物です。
☆。.:*:・’゜★゜’・:*:.。.:*:
以下の文章は、市民出版社発行の和尚講話禄「ヴイギャン・バイラブ・タントラ」シリーズの第2巻、第3巻に掲載されている、ワドゥダ(セドナのOSHOアカデミー・ディレクター)の解説から抜粋です。
内なる世界の科学者であるワドゥダの、この瞑想による変容のプロセスの描写は、とても大切な示唆に富んでいるものと思い、ここに転載します。
(VIJAY)
☆。.:*:゜扉としてのハート゜’。.:*★
私の経験から言うと、瞑想というものを始めるときに、とても重要な役割を果たすのが、ハートの瞑想です。本当のところ、瞑想にはふたつの段階しかない、と言っていいでしょう。それは頭からハートヘ、そして、ハートから臍つまり原初の中心へというふたつの段階です。
いったんハートが開いたら、あなたは物事をありのままに受容するようになります。これは非常に深い受容です。いったんその受容性が生まれたら、自分の目を内側に向けることができるようになります。そして自分の内部で実際になにが起こっているのか見ることができるようになります。この受容のスペースが生まれるまでは、自分の内側の物事は隠されたままです。
私たちの文化はすべて、自分自身を否定し、批判し、拒絶するようしむけるものです。私たちの中で否定され、批判され、拒絶されたものは、すべて下にもぐり、自分の目には見えなくなります。ハートのスペースが開かないかぎり、本当の意昧での瞑想は起こりません。
だからこそ、和尚は、ハートのことを瞑想の扉だ、と言うのでしょう。
この空っぽのスペース、つまり受容性が現れるときの感覚、それは、人々が愛だと思っているあの情熱的な感覚とは違うものです。そういった愛は普通、他人に対する化学的・ホルモン的な反応であり、人を強烈にひきつけるものです。それを私たちは愛と呼んできました。
いったい和尚は、愛という言葉をどんな意味合いで使っているのでしょう。
私たちは最近インドのプーナにある和尚コミューンで、これらの瞑想法を実際に体験する三ヶ月のトレーニングコースを実施したのですが、その中では愛という言葉を使いませんでした。なぜならその本当の意味について人々の間に大きな混乱があるからです。
和尚は言っています。
「愛はそれ自体、最大の方法だ。だが愛は難しい。ある意味で不可能だ。愛というのは、自分の意識から自分自身を追い出し、そしてエゴがあったその同じ場所に他者を置くということだ。他者を自分自身に置き替えること、それが愛の意味だ。あたかも自分はもういなくなって他者だけがいる、というように」
このような愛については、一瞥以上のものを知っている人はそれほどいないのではないでしょうか。だから私たちは愛という言葉を避け、そのかわりに受容性、慈悲、直感、遊び、静寂、信といった言葉を使うのです。こうした資質は、ハ―卜が実際に開いて初めて開花してくるものです。
なぜ、ハートが開くまでは実際に瞑想の体験ができないのかというと、そこに善し悪しの判断が働くからです。
和尚の言葉によると、瞑想の本質は観照(見つめること)、くつろぐこと、価値判断のないことです。ハートが開いて初めて、価値判断せず、あるがままを受け容れることができるようになります。すると自分の内側でなにが起こっているか見えるようになるのです。
たとえ数歩先んじている人がいて、他人の内側を見ることができたとしても、それはたいしたことではありません。唯一大事なことは、自分自身がその受容のスペースあるいは価値判断のないスペースの中で内側を見つめ、そこにあるものをありのまま見て、追い払おうとしたり、変えようとしないことです。変えようという考えさえも、あるがままの自分に対する微妙な否定となります。
だからハートが開き受容性が感じられたら、そこにはエネルギーのものすごい発見があり、自在無碍で、混沌として、遊びに満ちています。するとその人の成長は連続的ではなくなり、一歩一歩片足を下げてもう片足を上げてまた下げるといった具合ではなくなり、なにか垂直的な飛躍のようになってきます。そのプロセスの中で、ものすごい創造性が解き放たれるのです。
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