[SIJ: 20752] ①円坐影舞山月記 ②円坐守人稲妻稽古 ③丸森円坐・守人の学び舎 ご案内
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2020年 6月 1日 (月) 19:26:58 JST
皆様へ。
「指月の指」という古くから伝わる言葉があります。
指が指し示すのはこの世界が成立する背景としての「彼岸」すなわち「月」ですが、その光は我々の肉眼には見えません。
しかし、この世の本質である「彼岸」について、もしもそこへの「道」を教えてくださる「良き人」に出遇うことができたならば、
その方が指さす「指先」だけを見て安易に「わかった!」と処理してはならない。
指先のさらに先へと辿って、彼岸の月に照らされる「良きところ」へ本当に辿り着くまでその姿勢を変えてはならない。
「指月の指」とはそんな意味を持つ言葉です。
日本語という独特の「言葉」を身に宿して生きている我々日本人は、「個人的に人間として成長し自己を実現すること」を、本当には求めていないように見えます。
たとえこの身このままの平凡で愚かな自分であっても、平凡で愚かであるからこそ、最期までおのれを尽くして生きる覚悟となります。
たとえちっぽけな存在でも、ちっぽけな存在だからこそ、大切に命の隅々まで生きたいと切に願います。
そして、この人生で与えられた自分の運命に、最期の一息まで向き合おうとします。
これは大人でも子どもでも同じく言えることですね。
大地が揺れ動き火の山が爆発し海があふれる。動乱の小さな島国に長く生きてきた我々には、もともと長命を求める価値観は薄いのです。
我々が本当に価値を置いているのは時間の積み重ねが必要な「成長」や「実現」ではなく、限られた小さな時間を生きる姿勢そのものではないでしょうか。
人を見るとき我々はその人の実績や地位や肩書で判断しますが、そこに「姿勢」が伴わないときには心が離れます、
あるひとつの姿勢に貫かれて、たとえ平凡でもその生き様に筋が通っているとき、
人は人生の最期の一息を迎えて「そうですか、ならば」と晴れて「良きところ」へ向かうことができる。
「さようなら」という大和言葉は、「さようですか、ならば参りましょう。準備はできています」という旅立ちの言葉です。
長く生きることを前提として積み上げる「人生の目的」ではなく、たとえば円坐のある一場面での「振る舞い」や、影舞や縁坐舞台の数分間の「仕合いの様(さま)」、
あるいは未二観の15分間に置かれたひとつの「言葉」が、その人の全人生を代表する姿勢と人生観を示します。
日本人は、人として生きていられる間、すなわち「人間」に、一筋の姿勢があること、筋が通ることを求めてきました。
そしてその姿勢と筋の「通り」が、この世とあの世、此岸と彼岸を貫く一本の「道」である、と信じることができる「常識」を持っていました。
「最期の一息」とは、その一本の道を「一度切り」という姿勢で辿って初めて成立する「最期」であり「一息」です。時間の長短は関係ありません。
すると、だれでもが死ぬ時に「最期の一息」を経験するのではないということですね。
このような「一度切り」の姿勢は、「ちっぽけで平凡で愚かな自分」つまり「この世における自分には限界があり不完全である」という強い認識がなければ成立しません。
自分はどこまでも有限の存在であるというはっきりとした自覚があって初めて、「一生懸命さ」や「真摯さ」「切実さ」あるいは「尊厳」と呼ばれる人間性が現れます。
「ちっぽけで平凡で愚かな自分」に対して、それを変えるために何かをしなければいけないという「考え」を、現代では多くの人々が常識として信じています。
自分に働きかけ、「ワーク」をして、自分というものの内容を変え、人格のエネルギー効率を改善し、この社会システムに受け入れられるような姿を作り、
さらに自分が正しいと思う「自分」に「成長」し、自分が望む「自己」を「実現」すること。
それとは異なる世界観を生きている人々もいます。
「この“ちっぽけで平凡で愚かな自分”はまったくその通りであって自分の能力には明らかな限界がある。むしろ人の手を借りてやっと生きているのが自分の常の姿である。
だから「自分を変える」ためにわずかな生の時間を消費してしまうのではなく、今目の前に与えられた現実に今ある自分のまま全面的に関わる。仕合う。対峙する。
自分はちっぽけで平凡で愚かなままであるから物事が失敗する可能性はきわめて大きい。だがそれはそれでよいのだ。それが「この世界と自分」という現実なのだから。
その思うようにならぬ現実に対して、だからこそ「私は生きた」と言葉にできる事実。この世界と心から仕合って、対峙して生きたという姿勢の実感が「私の真実」である。
もし何かが成功するとしたらそれは“ちっぽけで平凡で愚かな自分”の力によるものではありえない。
家族や隣人、友や師、敵やライバル、そして今は亡き先輩たちの広大な働きと、この世界が用意した状況とタイミングがあったからこそである。
ゆえに何かを成し遂げるたびに彼らを想い、偲び、今も我々と共にこの世界に生きてはたらき続けている彼らの存在を喜ぶ」。
最初から限られた「人生」の時間と空間を、自分がちっぽけで平凡で愚かであることに納得して、それゆえに最期まで精一杯生きるということ。
むしろ限られてちっぽけであるからこそ「最期の一息」に価値が生まれるということ。
成長や実績を積んで自己確認するのではなく、「限られた自分の最期の一息を生きる」という姿勢、それを「道」と言う。
「自己成長と自己実現」という思想に対して、「道」という姿勢には「道連れ」という他者の存在と「道行き」という関わり合いがあります。
我々は「旅の道連れ」たちと一緒に彼岸への旅の道中にいるのですね。
「旅」とは「道」の上に立って初めて始まる一筋の方向への「運び」であり「勢い」です。
ここで僕の畏友であり、かけがえのない旅の道連れのお一人から頂いたお便りの一部を掲げさせていただきます。
<・・・お送りした【間の会のお便り】で、
父のことを「日々の報道などによって、様子が変わることはありません。」
と書きました。
実は、昨日、夕食の前、わたしは、父に、これまでも何度か説明したことはあったのですが、もう一度、今、世界で起こっていることや、
新型コロナウイルスのことを、もう少し分かりやすいように伝えてみました。
俳優・タレントの岡江久美子さんの訃報などで、少々、TVが落ち着かない感じであったからかもしれません。
そうしたら、この時、初めて父は、怯えるようになりました。
少し取り乱した感じになりましたが、食卓に置いてある、新聞の朝刊と夕刊を見て、
「新聞の朝刊と夕刊が置いてある」ということに、とても動揺して、「大丈夫か」などとうろたえていました。
話がよく分からない面もありましたが、新聞を見ると感染すると思ったようでした。
日頃から、TVの中の出来事と、チラシや新聞の文字と現実が区別出来なくなる時があります。
落ち着いて夕飯を食べてもらえるようになるまで時間がかかりましたし、わたしも、余計な不安を与えてしまったかなとも思いましたが、
この父の様子は、科学的でも一般常識的でもないものの、何か、日々わたしが感じる不安の実態と、実はそんなに遠くないようにも思いました。
夕食後、母が片付けなどで忙しく立ち働き出して、わたしは、お便りの発想作業をリビングの端の方でやっておりました。
父は、居眠りしながら食卓に座っていましたが、母が、忙しく立ち働きながら、
「次から次へとやることがあって忙しいわ。これが私の仕事やからね。お父さんの仕事は何?」
と少し冗談交じりに、父に話しかけました。
父は、ボソボソっと小さい声でつぶやきましたが、わたしには聞こえませんでした。
「なんて言ったん?」とわたしが父にたずねると、父は、更に声を落として小さく答えました。
「何て?」と、母に尋ねました。
母には聞こえたようで、
「お父さんの仕事は、ふるさとに帰ることやって」
「え?」
「あんまりいい話じゃないから、人に聞かれるといかんから大きな声では言えないって」
とのことでした。もちろん、ここには3人しかいないのですが。>
「仕事はふるさとに帰ること」
彼の御父上の言葉が僕にもはっきりと聞こえました。
ふるさとに向かって歩一歩と景色を辿っておられる御父上のたたずまいに、僕は心の底から満たされるものがありました。
その足元に僕の仕事のすべてを置かせていただいて道端に坐り、ゆっくりと歩む御父上の背中を仰ぎ見て、そしてお辞儀をいたします。
僕の仕事も、良き仲間とともにふるさとに帰ることでありたいと、残りのすべての人生はそうありたいと切に願います。
このふるさととは、いったい何であるのか。人が一生懸命に生きて、自分の数十年の命を最期までまっとうした暁に、
この肉体とこの世を離れてそこへ帰りたいと心から願うそのふるさととは何であるのか。それはどこにあるのか。
ここで御父上の姿とその言葉を心理学や精神医学の知識で分析して安易に答えを出すことは決してできません。
この世界は「指月の指」です。見えるもの、分かるものだけで判断しては、人として筋が通らぬことがあるのです。
むしろ僕は、今回の伝染病の世界的流行が人類に思い知らせることになった本当の問題に思いを馳せます。
我ら人類が問うべき根本的な問題は何か。
我々一人一人が新型コロナウィルスに感染してその一部に含まれることを恐れている「死者数」とは、何なのか。
我らにとって「死」とはいったい何なのか。
うまくコロナを生き延びてもやがて別の統計の「死者数」の一部になることが決まっている「我々」とはいったい何なのか。
現在進行中で、試合終了のホイッスルが鳴るのを待つばかりの実人生という具体的な生活にどう「落とし前」をつければいいのか。
僕は、指先と指先をふれ合わせてその先の一息を辿る縁坐影舞の舞台と、
目の前の人が発した言葉を「てにをは」まで辿り、最期の一息に対峙する円坐と未二観を終生の仕事としています。
円坐、影舞、未二観とは「我々の姿勢」であり「最期の一息」です。
そして言葉とは、「一息の姿勢」です。
人の言葉を辿り、対峙すると、「言葉」は二人の間で新しい命を持ちます。
ふたりで辿る一つの言葉は、踏みしめられ、筋が通って「姿勢」になり「道」になります。
「道」が現れた時、ふたつのものはひとつになります。
それはあたかも、かつてひとつだった両者が再びこの道に「運ばれて」深い約束を果たすかのようです。
ちっぽけで平凡で愚かな私の言葉を辿ってくださるのは、「他者」との深い約束があるから。
辿られた私が、辿ってくださった「他者」の言葉を辿り返すのは、この世界との深い約束があるから。
私が「私」という道の「最期の一息」に辿り着くのは、その時に初めて明かされる深い約束があるから。
それは、私以外のすべての他者との約束が、「人間」としてこの世界に生まれた「私自身」との深い約束であったということ。
我々がちっぽけで、平凡で、愚かであるからこそ「この世の約束」を果たすことができる。
「この世の命」が限られているからこそ、「この世の最期の一息」があるからこそ、限りないものからの「深い約束」が果たされる。
最期の一息とは、待ち合わせ。
生きるとは、間に合うこと。
この一文をしたためている目の前の、半分開けた窓からそよ風が入ります。
雀の声はいつにもまして賑やかで、家の前を通る人の声がよく聞こえます。
その声が明るく活気に満ちて聞こえるのは、コロナの緊急事態宣言が解除された街の雰囲気のせいでしょうか。
二階にあるこの部屋の、窓ガラスにふれるところまで、我が家の柿の木が枝を広げています。
柿の葉は、初夏の熱を喜んで生き生きと緑を濃くしています。
この柿の木は、娘が小さい時に自分で鉢に埋めた柿の種が育って、30年経つ間に鉢を破り地中深く根を張って大きくなりました。
大きくなるにしたがって木の根元が膨らんで歩道に張出し、道路整備の工事のときに、市役所から木を切るように再三言われましたが、
僕は切るのが嫌でうなづきませんでした。当日、工事を請け負った作業員の方が、我が家の前の歩道のタイルを全面的に貼り替え始めたときには、
もうこれで切られてしまうのかと思っていましたら、柿の木の根元だけタイル1枚半分を貼らずに工事を終えて行かれました。
そのため、30センチ四方のコンクリートのタイルが一面に貼られた我が家の前の歩道は、柿の木の曲がりくねった根元のところだけ、
根の形に合わせてタイルを切断し、うまく組み合わせた特別仕様になっているのです。
4,5人の作業員のおじさんたちが、我が家の前の歩道で黙々と仕事をしておられた姿が今もまぶたに浮かびます。
こうして柿の木は今日も窓の外で元気に葉を茂らせ、渋柿ですが、毎年たくさん実をつけて、人々の目に映り続けています。
旅から帰って久しぶりに我が家の柿の木の姿を目にするときなど、僕は、「柿の木は残った」とおもむろにつぶやくのです。
ここが僕のふるさとです。
良き人の良きお便りを誠にありがとうございました。
僕も少し遅れて歩く道連れの一人、懐かしきわが友とともに還る円坐影舞旅の空です。
きくみるはなす縁坐舞台~影舞山月記(鬼)第7期 坐長 橋本久仁彦(Sw.Deva Premi)
(円坐影舞和讃より)
きみは舞台と見晴らせば
あなたとわたしは空と道
願い願われ待ち待たれ
約した声をたどるたび
来いよこいよと乞うこえに
着のみきのまま明らめて
この身このまま満たされる
幾百万の景色へて
辿りし道は空に果つ
円坐影舞縁坐舞台
未二を観じて夢仕舞い
あなたがわたしの還る空
目に見えぬ彼岸の山月への旅路を古来「鬼籍に入る」と言います。
きくみるはなす縁坐舞台~影舞山月記(鬼)と名乗る所以です。
きくみるはなす縁坐舞台~影舞山月記(鬼)第7期クラスをご案内いたします。
【日程とクラスの時間】
①6月16日火曜日 18時30分~21時30分(全8回)
②6月30日火曜日
③7月14日火曜日
④7月28日火曜日
⑤8月11日火曜日
⑥8月25日火曜日
⑦9月15日火曜日
⑧9月29日火曜日
(*お仕事のご都合などで毎回遅れてのご参加や途中退出もOKです。)
【受講料】 全8回 3万円 単発参加一講坐4千円
【会場】 影舞山月記(鬼)稽古場(大阪市西区千代崎2-20-8)
(地下鉄鶴見緑地線「ドーム前千代崎」駅②番出口徒歩2分
阪神ドーム前駅徒歩3分・JR環状線大正駅より10分)
【申し込み】 メールにて、enzabutai @ bca.bai.ne.jp はしもとくにひこまで。
よろしければ受講の動機を簡単にお伝えくださいませ。
★★★
「それぞれの生きし姿を旗印に個が集まる。
その個が円坐を組むとき、結合と分裂、跳躍と屈伸、融合と融解、前進と後退、といった胎動を繰り返しつつ、
次第にひとつの有機体としての生き物のように動き始める。
そしてピースとなって動き始めた個としての細胞は、有機的生命体から生きるエネルギーのようなものを掬い取っているように思える。
僕にはそのダイナミズムがとても面白いし、集合体としての生命の躍動に心惹かれる。
円坐守人は、その場その時にしか生まれ得ない唯一無二の生命体を取り上げる助産師といったところだろうか?
助産師があってこそ安心してイキイキとした産声をあげられる。
今回はそんな守人としての“働き”を我が身に沁み込ませたいと願い、橋本久仁彦氏に稽古をお願いしました。
志を共にしていただける方々のご参集を、心よりお待ちし申し上げます。
長江賢太郎(けんけん)」
「円坐という詩・円坐守人という生き方~守人の里、中野方にて円坐守人稲妻稽古」
暮らしの中で円坐守人の仕切りや仕事をする方々のために設けた集中クラス・道場です。
伸びゆく稲穂に見守られながらの守人稽古ですので「稲妻稽古」と名乗ります。
①6月19~21日
②8月21~23日
③10月16~18日
*参加費 各回 4万9千円 (研修・宿泊・食事込み)
*募集人員 6名程度
【アクセス】
*電車の場合 : JR恵那駅(名古屋駅より約1時間) ⇒ バス恵那駅→中野方中切
(「中野方中切」バス停まで車でお迎えに上がります。会場まで3分)
*車の場合 : 中央道恵那インター下車 そこから会場まで約25分
<お申込み・お問合せ>
アドレス:megumi_natural @ yahoo.co.jp ( 暮らしの宿 ときのうた 長江 )
以下の内容をメールにてお送りください。
1. タイトル(円坐守人稲妻稽古) 2.参加ご希望の日程 3.お名前 4.年齢
5.住所 6.携帯電話番号 7.会場までの交通手段 7.食べられないもの・苦手な食べもの 8.その他 お一言
★★★
◎まるもり円坐◎守人の学び舎への誘い
「目的をもたない場」を目的に、集う。
至極贅沢で、いまの時代にこそ、求められる心の拠り場へ。
***
私は、ほかの何者でもない、私である。
私は、生きている。考える。動く。立ち止まる。
そして、感じる。答えのない問いを、問い続けている。
私は、個であり、孤独である。
私は、繋がり、人と人、動物と、自然と、狭間にある名も無いものたちと、ともに時を過ごすなかで、偶発的な巡り合わせが必然の縁へと結ばれてゆく。
東北の小さな里山・丸森の地に、円居(まどい)という拠り場をひらき、辺境の地からこそ、愛と幸せの物語を紡いでゆく。
自然のうねりによって、傷ついたこの地で、たとえ明日地球が滅びようとも、私たちは心の種を育んでゆく。
***
円坐とは、参加者全員が円になって坐り、ただ話をするシンプルな場をさします。
そこには、目的やゴールはなく、そのときその瞬間の「自分」のあり方や、相手の話への耳の傾け方、聴き方を問われる場でもあります。
場に佇んだなかで、場の守人が包む安心と沈黙を愛で、深く静かに自分と向き合う瞑想のひととき、心の奥底に自分すらも気づかなかった想いや、
互いの言葉を辿り合うなかでひとつひとつと、紡がれる言葉の美しさは、偶然のようでいて必然を確信する心に変わってゆきます。
まるもり円坐では、円坐の場を見届ける守人(もりびと)を育成し、東北・丸森の地から、円坐の場づくりを広げてゆくこと、
その先にどんな人にも心の拠り所を増やして自分らしく生きやすい社会を目指して、守人育成の学び舎を開くこととしました。
日時:2020年8月31日(月)〜9月1日(火)
場所:工房伽藍(〒981-2116宮城県伊具郡丸森町字上滝東26-1)
行程:
8月31日(月)
10:00〜18:00 円坐
19:00〜21:30 懇親会
9月1日(火)
10:00〜15:00 円坐守人の学びのとき
参加人数:定員15名
参加費:2日間2万円(プログラム参加費および懇親会参加費)
地域割(岩手・宮城・福島在住の方)2日間1万円
※宿泊は各自手配をお願いします。
宿泊費用・昼食費は自己負担となります。
主催:(社)YOMOYAMA COMPANY、よはく
円坐守人:橋本 久仁彦さん
参加申込について:
以下のURLより事前の申込をお願い致します。
<https://docs.google.com/forms/d/1qyq21vCCXhWy_iIHsCJACUzmAysYmR056aUGw8skzow/prefill> https://docs.google.com/forms/d/1qyq21vCCXhWy_iIHsCJACUzmAysYmR056aUGw8skzow/prefill
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