[SIJ: 21077] 円坐影舞稽古@福寿稲荷神社のご案内と長崎のこと。

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2020年 11月 10日 (火) 19:11:59 JST


皆様へ。



今週土曜日に愛知県の岡崎市で円坐影舞の稽古を行います。

影舞は、二人の影舞人が指先を合わせて行う舞踊です。

舞台上にしっかり存在しているAとBのふたりが影舞を舞う時、

観客はふたりの人間がお互いに指を合わせる瞬間を見ます。



指先が「出合い」即「仕合う」瞬間、それまでそこに個別に独立して存在していたA
とBはいなくなります。

では指を合わせている影舞の数分間、そこにいるのは誰でしょうか。

あるいは「いなくなってしまう」ことができるようなそれまでのAとBとは、いった
い誰でしょうか。



これらの問いは僕の現在の仕事である「円坐」「未二観」「縁坐舞台」の理念に関わ
る問いです。

僕の仕事では、個人的に行うワークや瞑想を用いません。人と人との関係がすべてで
す。

「人」とはそのまま「関係」のことで内も外もありません。

「自立した自分」というのは概念にすぎないと思います。



きくみるはなす縁坐舞台、折句として読んでまさしく「きみは舞台」、

そして「あなたが私の還る空」(円坐影舞和讃より)



これらの言葉の意義を確かめ、上記の問いに対して応答しうる景色へと移り往く道行
きが「稽古」です。



日本の、特に田舎のおじいちゃんやおばあちゃんが僕は大好きで、僕が以前在籍して
いた大学やスクールからではなく、

彼らのような土着の日本人から教わったことが現在の僕の中に生きて残っています。

是非はともかく、村の衆とのつながりを大切にし、家族や友人のために生き、人に受
けた恩は年月で風化せずその子や孫に返し、

恩を受けた事実を生涯座右の銘として死ぬまで生き抜く。



彼らのような土着の人々から僕は情愛や恩を受け取り、生きる喜びとしてきました。



先日開催した長崎思案橋横丁での8分未二観スナック「梓」は、いつも主催してくだ
さる片山健太さんのご両親のお店です。

このスナック「梓」を、現在は闘病中のお母様が長年切り盛りし、息子たちを育てて
きました。

今はお父様が、息子であるけんちき(片山さんの通り名)とともに、やがて区画整理
で無くなる運命の思案橋横丁のお店で、

コロナのため経営は限界ですが、それでも来てくださるなじみのお客様に対して8分
未二観という新しいメニューで応えようとしています。



たとえそのお客様が亡くなっても、カウンターでかつて生きていた飲み友だちの声を
聞けるような、

いつか自分がこの店に来れなくなっても、自分の声をスナック「梓」の皆の衆が聞き
辿ってくれるような、

そして区画整理で思案橋横丁が無くなってしまっても、8分未二観のキープボトルを
開ければ

人びとの懐かしい声の響きの中に時空を超えた思案橋のスナック「梓」が厳然として
ある。



実際すでに8分未二観ボトルの中には、たくさんの音源データカードが入っていまし
た。

「誰でも聞いていいよ」というボトルや、特定のお客さまを聞き手に指定したボトル
があります。

まさに世界でただ一つの時空超えスナック「梓」です。



僕もカウンターに坐って「8分未二観」を注文しました。

お酒ではなく水を頂きましたので「水割り」です。

地元長崎の「みわさん」が未二観でくにちゃんの話を聞いてみたいとおっしゃって、
ママさんとしてカウンターに入り注文を受けてくれました。

昭和時代を生き抜いた小さなお店の空間で音量を落としたジャズの曲を背景に、お酒
を呑みながら耳を傾けてくださる方々の息遣いを意識しながら、



「ではこれから8分間はくにちゃんの時間です」



僕は水のクラスを片手に8分間語りました。カウンター越しの未二観はものすごく話
しやすかった!

自分が語る言葉を僕自身もひとりの客となって聞いているかのようでした。



「僕がこの長崎に来るのは、長崎に歴史的、政治的な意味があるからではない。

けんちきがいるから。けんちきのお父さん、お母さんがおられるから。

長崎を愛する気持ちを熱く伝えてくれたけんちきの奥さんの薫子がいるから。

そして今年ついに生まれた二人の息子、恵人君がいるから。



この方々がいなければ僕にとって「長崎」という時空間は存在しない。長崎は「汝が
先」。他人が先、死者が先である土地。

町中に古くからの墓所がある。教会やお寺や神社がいっぱいある。斜面地だからいつ
も死者が上の方から見ている感じ。

長崎は生きることの核である死そのものが、空気感の中に「寿ぎ」「祝い」「祭り」
として新鮮なまま「生きて」いる。



ああ、この店のカウンターはなんて話しやすいんだろう。

僕はまたここに来たい。長崎で自分の仕事をやりたい。

日本にはたくさん場所があるのになぜここなのか。



ここでは僕が死んでも話を聞いてもらっている気がするから。

僕が死んだ後も大事にしてもらっていることを、生きている今実感できているから。

けんちきとけんちきのご家族の振る舞いにそれを感じているから。

そして長崎で円坐に坐る地元の方々のたたずまいにそれを感じるから。



毎年10月9日の「おくんち」の祭りに出ることに一生を費やすような町衆達がい
る。

なぜお金のための仕事ではなく、祭りに命を燃やすことができるのか。

一言でいえば、死者が死んでいないからである。生きているからである。熱く仕合っ
て生きたものは決して死なないからである。

僕が生涯取り組んできた「無条件の肯定的尊重」という言葉がここでは本当の意味で
成就している」。



8分間は一瞬で過ぎ去りました。この僕の声も時空越えのスナック「梓」に魂の声と
なって永遠に生き、

他のお客様の声とともに次元を超えて響き続けることになります。



この日は長崎港沖合の軍艦島で生後18年間を暮らした岡村衛さんが来てくださいま
した。

以前、軍艦島の盛衰を見届けた語り部として円坐に来ていただいて以来の再会です。

岡村さんは、細身で柔和な好々爺然とした風貌ですが、僕がいつも伝えるのに苦労し
ている円坐や守人の本質が、

いとも簡単に通じた数少ない人物の一人です。



彼は、「端島(はしま・軍艦島の本来の名前)ではいつも円坐でしたよ」と笑って言
います。

端島とは、周囲1km余りの草木のない岩礁とコンクリートで固められた絶海の孤島
です。

ここに最盛期には5,300人もの人間が住んでいました。

三菱重工が海底深くの石炭を掘り出すために人工の町を作ったのです。



彼は言います。



「・・島の周りは高さ10メートルの大岸壁で囲まれ、5階建てから9階建てのビル
が30数棟も林立し、

コンクリートジャングルの共同生活。六畳二間に五,六人の家族が住み、一歩外に出
ると人、人、人。

でも不思議に大きなトラブルは起きなかった。共同生活なので万機公論に決すべしと
自治精神が豊かだったから。

隣に誰がいるのか知らないとか、家に鍵がかかっているとかはあり得ない。

自由がないからいやだと夜逃げを考えても小さな絶海の孤島なので無理。

結局坐って覚悟を決めて話し合うしかなく、端島は「全島一家族」と言われていた。



人はたとえ不自由であっても覚悟ひとつで、その不自由さゆえにお互いを思いやって
生活の豊かさを学んでいく。

東京など大都会では何かあるたび「自由だ」といって自分の主張を通そうとし、逃げ
場を見つけようとする。

逃げ場などないのだ。始めからそう覚悟を決めれば道は開く。

島を世界遺産にしたがそんな必要はなかった。物理的な島そのものは滅びに任せてよ
い。

私はそれより我々の生きてきた姿を、生き様を、私のふるさと端島の、軍艦島の文化
として残していきたいです」。



彼も8分未二観を注文してくださったので、スナック梓のボトルにキープさせていた
だきました。毎度ありがとうございます^^。



一度も振り返らない若々しく颯爽とした岡村さんの帰り姿を、皆で店の前まで出て見
送らせていただきました。

やがて消えゆく定めの思案橋横丁に、不滅の男気を漂わせて悠々と去りゆく岡村さん
の後ろ姿を、僕は心の底からかっこいいと思うのです。



これこそ「きくみるはなす縁坐舞台〜影舞有無の一坐」の興行であると一同胸を張っ
てお見送りいたしました。





                長崎思案橋・未二観スナック梓と片山一家の弥栄
を祈念して。

                        

                     橋本一家家長・有無の一坐坐長 橋本
久仁彦(Sw.Deva Premi)





 



さて、岡崎・福寿稲荷神社での円坐影舞舞台のご案内文の中に以下の文章がありま
す。

主催の吉見さんのお仕事がパン種の発酵ですので、円坐という舞台や円坐守人という
仕事についてのよいメタファーになっています。



・・・「ferment(発酵)」という言葉は、「沸騰する」という意味のラテン語
「fervere」から派生した言葉です。

「Fervor(情熱)」や「fervent(熱心さ)」も同じ「fervere」を語源にもつ言葉です。

発酵している液体は、ちょうど沸騰しているのと同じような激しさになって、その力
で変化を起こすこともできるのです。・・・



円坐影舞の稽古の肝要としてひとつ付け加えるとすれば、円坐という舞台における発
酵には人という存在の「沸騰」、すなわち熱量が必要です。

他人の指示のもとに行う「ワーク」や単独で行う「瞑想」は、僕にとっては沸点に至
るための熱量がなく、両者とも自我に管理されているがゆえに、

僕が求めていた「他者にふれる」ことが存在しませんでした。



円坐はただの「空」で、一期一会の坐衆しか存在しません。

守人が自分自身を懸けたお辞儀によって仕切った時間内を、我々が本当にそこに坐っ
て、

円坐舞台の坐長である円坐守人が「ことば」を辿れば、人びとはおのずから熱量を帯
び始めます。



我々が生まれてきて以来、家族を含めた他者とともに生きて存在することの、この身
を焦がす生存の圧力が「自由」となって結晶するのですが、

現代知識人の常識ではその錬金する圧力を「ネガティブ」とし、「空」から逃げ去る
ことが「正しさ」となっています。

そのため空ではなく「空しさ」という「正しさ」がそこにあります。

『自由からの逃走』というエーリッヒ・フロムが描写した古典がありますが、それは
正鵠を射ていたのですね。





では表記円坐影舞稽古のご案内文をどうぞ。







11/14(土)橋本さんに稽古をしてもらいたくてお願いをしています。

お知らせをするにあたり、ご案内の言葉を考えるのですが、なかなか定まらなくて、

なぜ自分が影舞をしたいのか、なぜ円坐や未ニ観に興味があるのか考えています。



私はいちばん長いお付き合いの仕事としてパン作りをしています。

小麦とお水がある空気にふれると、ぷくぷくと発酵が始まります。

その時を見て、粉を継ぎ足し、交ぜ合わせ、また発酵を待ち、

これを何度となく繰り返してパンが出来上がりました。



橋本さんも、円坐、影舞の世界を、よく発酵だとおっしゃられて、

私も影舞とパンを捏ねる時間を似ていると思っています。



レシピ通りでは自分が定まらずに、じゃあこうしたらどうなるのか、

なぜこうなるのか、いろんな挑戦をして、失敗をして、勝手に傷ついて、

そうしてパンと関わっているうちに、パンが自分を映してくれるようになりました。



緊張したり、挑戦を怖がるようになったとき、パンは全然膨らまないし、

期待をしすぎたりすると、真っ白けの酸っぱいパンができたりしました。

逆に力が抜けて楽しく向き合えば、かおり豊かなパンになりました。

そうして私はパンの変化で自分をただすような、そんなことをしていきました。

自分をただすことは、自分の心持ちに目を向けることから、次第に周りへと向かい、
自分はどんどんひろがって、

どこまでいけば良いのか、どこまでが自分なのか分からなくなっていくような、そん
な作業になっていきました。



橋本さんに来ていただくのはちょうど1年振りになるのですが、

橋本さんから「姿勢」が決まらないなら延期しても、とお言葉をいただいた時に、

パンに向かう「姿勢」を自分で決めたことを思い出しました。

そして、私はずっとダメなままだけど、そのまま、ダメなまま、向かおうと思いまし
た。



案内文の代わりに、気になった文章を添付させていただきます。



『社会変化は発酵のもうひとつの形です。いろんな考えはどんどん広がり、

いろんなものに変わりながら他を変える動力になるという点で、考えも発酵していま
す。

また、オックスフォード英英辞典では、英語で「発酵」を意味する「ferment」を2番
目にこう定義しています。

「感情や情熱、動揺や興奮などによって高ぶっている状態、(中略)一種の興奮状態
で、より純粋なものやより全体的なもの、

またより安定した状態のものを生みだしやすくなる」。



「ferment(発酵)」という言葉は、「沸騰する」という意味のラテン語「fervere」か
ら派生した言葉です。

「Fervor(情熱)」や「fervent(熱心さ)」も同じ「fervere」を語源にもつ言葉です。

発酵している液体は、ちょうど沸騰しているのと同じような激しさになって、その力
で変化を起こすこともできるのです。』

『天然発酵の世界』より



私のパンの種の中では、いろんな菌が時に戦い、共存しながら、おいしいパンになる
力を蓄えてくれています。





2020年11月14日(土)

10:00から17:00

福寿稲荷神社

守人 橋本久仁彦さん

参加費10000円

円坐影舞稽古

一緒にお稽古して下さる方を 募集しています。

日にちも迫っていますが、ご都合が宜しければ是非ご一緒させていただきたいと思っ
ています。

ご連絡お待ちしています。



よしみん

 <mailto:吉見良子messenger又はocha3393 @ gmail.comまで> 吉見良子messenger又は
ocha3393 @ gmail.comまで





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