[SIJ: 21419] 路傍の草 円坐ひとひろ〜天王寺新世界〜ご案内

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2021年 5月 14日 (金) 01:41:21 JST


皆様へ。



いかがお過ごしでしょうか。



日曜日に久しぶりに我が家の墓参に行って参りました。

初めて自分の両親の墓所で影舞を納めることができました。



僕の両親は淡路島の出で、橋本家の宗派は真言宗です。

墓所は高野山の奥ノ院の隣の大霊園にあります。

良い日和に恵まれ高野三山の一つ摩尼山にも登って一坐の良い山稽古になりました。



帰宅は夜10時前と遅かったのですが表記円坐ひとひろの下見と場あたりに付き合って

天王寺の新世界界隈に出向きました。



夜の通天閣周辺を歩きながら影舞の舞台になりそうな街角や階段、高架下などの

空間を探っていきます。

エヴァンゲリオンの作者、庵野秀明さんが、映画はアングルがすべてだと

おっしゃっていました。アングルと編集だけで動きが無くても映画はできると。

戸外に設定する縁坐影舞の舞台においてもアングルが命です。



活きた影舞の「運び」や「様」と舞台アングルの相互作用によって、

見慣れた街角がまるで初めて訪れた旅先の町のような新鮮な輪郭をもって蘇ります。



縁坐舞台は事前にいろいろ考えるよりも我が身を現場に運び、

その時間と場所が与えてくれる立ち位置=観点を呼吸してみるのが一番です。

縁坐舞台のヒトガタ(影舞役者)にとって「考える」とは生(ナマ)の現場とふれ合
い、

その本物さにたじろぎ、揺れること。

そして主観と客観がぶつかり合い、融合して生まれる未知の「とき」の中で

自分自身の息を確かめることです。



わずかの時間の場あたり稽古でしたが大阪天王寺・新世界の濃密な夜の息吹を

呼吸することができました。

我々はこのような舞台稽古や出稽古の時に周りの世界の輝きや輪郭、

あるいは生命力とふれ合い、仕合って命が刷新されているように思います。



道すがら東京で円坐舞台を実践する友人たちのことを語り合いました。

彼らのゆかりの東京の街角を訪ねて円坐舞台を置いてみたいね、と。



今まで「円坐守人稽古」だった名のりは「円坐舞台守人稽古」に変化しました。

円坐舞台における守人とは「円坐」という即興舞台空間を司る大道具方であり監督で
あり役者です。



新世界の通りに大相撲の大阪場所を宣伝する看板が出ていました。

僕がやってみたいこととイメージが重なりました。

円坐舞台の東京場所や名古屋場所、大阪場所、徳島場所、長崎場所など

きくみるはなす円(縁)坐舞台を主催する守人社中・連中が

龍の姿の輪郭を持つこの日本列島を東へ西へ、円坐舞台出稽古巡り、

様の祭りのドサ廻り旅ができると楽しいなと思います。



円坐舞台の用語である「仕合」には「勝負事」という意味も含まれています。

「対峙」や「筋を通す」「引導を渡す」といった態度的価値を示す言葉もあります。

「合戦」や「調略」「ロビー活動」「マウントをとる」という言葉も用います。

僕にとってこれらの言葉や意味は決して「ネガティブ」ではなく

むしろ真剣な人間関係の味わいには欠かせない重要な味覚的要素です。



身分国籍宗派、生老病死の別にかかわらず、人の間に生きる「人間」同士どこまでも
対等に

誰でも舞台に上がることができる円坐舞台。

我々はそこで初めてナマの他者を目撃し、ナマゆえにおののき、対峙し、仕合い、

その因縁と業の「有り様」を鏡として「自分」というものの「実際」を自覚します。



有無の一坐は年に一度秋の彼岸に「関ヶ原古戦場円坐」を開催しています。

その人望から西軍総大将と目されるようになった広島在住のある紳士が、

円坐について以下のように語られたことがあります。



「日常生活の中では人間関係によるストレスで人付き合いが何なのか分からなくな
る。

僕が円坐に来たり影舞をするのは自分のために「人付き合い」とはいったいどんなも
のだったか

を確認するためです。そしてそれは僕にとって不要不急のことではありません」。



若くして有無の一坐の欠かせぬ一角を担う橋本悠は、

彼のこの発言をとても大切に思っています。



「主催する僕らにとって円坐舞台が一番面白いというのはそれでいい。

だけど参加してくださる円坐舞台の坐衆の方々も自ら円坐舞台の意味を決めてゆく。

舞台を用意する側にとってはそれが決定的に大事なこと。

ひとりよがりになったら舞台は腐る。



日常生活では日常に縛られて夢心地で人生が過ぎて往く。

いわば起きながら寝ている。

円坐舞台で、僕らは起きる。



対等であれば秩序は保たれる。

排他的になると円坐の秩序は崩れる。

いい円坐舞台かどうかは外から来てくれた人が決める。

円坐舞台の守人はただ自分の人付き合いをみせているだけ。、

それが面白いと皆が集まってくる」。





有無の一坐は円坐舞台を上演します。

その姿がもし幸運にも様になっていれば平伏して御礼し、

無様であればやはり下座平伏してお辞儀をします。

それを「様の祭り」と名付けて「きくみるはなす円坐舞台」の様式とし

出稽古ドサ廻りの旅路を歩いています。



平安の昔、乞食の人は腰に藁の坐布団をくくりつけて旅をしたそうです。

そしてどんな場所でも腰を落ち着けるときには自分の魂を置く場として

その坐布団を敷いて坐りました。



円坐舞台守人は「円坐舞台」を身に付けて全国を旅し、

いざ有縁の坐衆と出遇い、対峙するときには「坐舞台」を敷いて我が魂を

その上に乗せて坐ります。





円坐ひとひろ守人の橋本仁美が案内文に以下の言葉を記しています。



「私は、人に生まれたのにまるでロボットみたいに

出会うってなんだっけ?とよく考えます。

考えてもこたえは見つからず遠くなるばかりなので、

一緒にいても居ない・出会えないと感じたり

一緒にいなくても居る・出会ったと感じる

そういう手ごたえを頼りに出会うことを知ろうとします。」





僕も同じ思いでこの六十有余年を生きてきました。

今も明らかに思います。

僕が人間に生まれてこの人生を生きているのは、

人と出会い、人付き合いをするためです。





第一回円坐ひとひろは京都鴨川、第二回は大阪梅田、

そしてこのたびの第三回目は天王寺新世界です。

古くて新しい円坐影舞の道々の者。草の者。



名残りのドサ廻りを往く異能の芸能者としての円坐舞台守人が日本列島を巡り、

坐舞台を腰に付けて今生有縁無縁の「有無の坐衆」を訪ね、辞儀し、謝して歩く

円坐舞台芸能の悠久の時空を立ち上げてみたいと思います。





きくみるはなす縁坐舞台 円坐影舞有無の一坐 坐長 橋本久仁彦(Sw.Deva 
Premi)









みなさま



路傍の草 円坐ひとひろ〜天王寺新世界〜のご案内です。



このたび、

懐かしの思い出の地、天王寺〜新世界界隈へ参ります。





円坐ひとひろの守人を一緒につとめます橋本仁美さんとは、

生駒石切円坐守人稽古でもご一緒させていただいています。



千代崎で開講されております縁坐村塾におきましても、

橋本久仁彦さんと共に鼎守人をつとめさせていただきます。





西洋と東洋という二項対立する世界観ではないところで、

西洋音楽の学問領域と日本的音づれの融合を試みて語る、

ひとみさんの語り口は、まさに『音學』だと思います。



 人生、音に学び、音と学び、音から学ぶ 



新たなご縁にむすはれ、

何歳になっても學ぶ、人の姿勢は、とても懐かしく、

同時に、新鮮で、本当に尊い、人の様でもあります。



学ぶとは、

縁切りであり縁むすひであり、

今生を最期まで生き切ること。



肉体は死んでも、視えないからだでずっといきて往くということは、



『産まれた此の身』と『視えぬ(空間}からだ』も渾然一体となり、

有無一定(うむいちじょう)に、坐ることでは、ないでしょうか。



それでは新世界にて、

お会いするご縁を楽しみにお待ちしています。



松岡弘子





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路傍の草 円坐ひとひろ〜天王寺新世界〜

ご案内

影舞人・縁坐舞台守人 :橋本仁美 松岡弘子

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みなさま



こんにちは。



円坐ひとひろ、

昨年末の京都鴨川、逢坂梅田に続きまして、

今回はディープな天王寺新世界へ参ります。



小さい頃は、天王寺といえば動物園でした。

ギター買うため高1でバイトをしたのも天王寺のマクド。

慣れないレジ打ちやお店の前での客引きは恥ずかしかったけれど、

そんな思い出とともに行き交う人も街も活気があふれていた時代です。



天王寺駅から天王寺動物園への道の路上では、

昼間からおっちゃんとおばちゃんが踊っていたし、

天王寺全体がカオスで、場末の盛り場の様でした。



いまはすっかり街も美化され、

観光地化されたと聞きますが、

あちこち歩けば、

風情や面影も残っていると思います。



コロナで世の中が怪しくなってくると、

人知れず、街の道の片隅で咲く野の花。



根っこをおろしては、儚く消え、

またどこかの道端に、ふとあらはれる、

円坐ひとひろは、道端で儚く消え往く、

路傍の草の魂のおとづれかもしれません。



それでいてなぜか元気になる!



円坐ひとひろ、次回は天王寺新世界です。

ぜひご一緒ください。



松岡弘子



・・・・

・・・・



みなさま



橋本仁美です。道端縁坐影舞「円坐ひとひろ」のご案内です。

松岡弘子さんとみたびご一緒し

ひとときあらわれる「見えない舞台」を設けます。





出会うとはなんだろうと最近考えます。

松岡弘子さんと居ると

なんの理想も利害も計らいもなしに、ただ出会いにいく

ということそのものがひしひしと、びりびりと迫ってきます。



私は、人に生まれたのにまるでロボットみたいに

出会うってなんだっけ?とよく考えます。

考えてもこたえは見つからず遠くなるばかりなので、

一緒にいても居ない・出会えないと感じたり

一緒にいなくても居る・出会ったと感じる

そういう手ごたえを頼りに出会うことを知ろうとします。



このたびの円坐ひとひろの舞台は天王寺新世界です。



私にとって天王寺のおもいでは、ジャグバンドミュージックです。

なじみの場所を思うと、そのときのライブの温度やメンバーのことを思い出します。

ライブのあと必ず行ったホルモン鍋屋さん。西成の細い商店街。

他人でもいきなり間近で声をかけてくるおっちゃん。

思い出すたびにまた出会っているような感覚も少なからずあります。

これはたんなる記憶の再生なのでしょうか。



記憶の再生能力は、年をとっていけば衰えておそらくなくなりますが、

出会った感覚や面影は死ぬまで、たぶん死んでも、消えないような気がします。



出会うことは、いずれなくなっていく記憶にとどめることではなく、

離れても身が滅んでも感じるほど相手がわたしの身に刻まれること

なのだと思います。



きっと、体が元気なあいだは誰かの面影を全力で記憶から抹消できても、

年をとったらガタがきて、時間も空間も関係がなくなって、

その人の面影が、思い出が目の前に打ち寄せてくるのではないでしょうか。



こういうことを思うといつも、

「死ぬのが怖くないの?」と尋ねたら「思い出があるから怖くない」

とはっきり言った生前の祖母が浮かびます。

祖母のように、しっかり出会って、出会った人たちの面影とともに

死んでいきたいです。



天王寺新世界での誰そ彼時の舞台です。

ご一緒できるご縁を楽しみにしています。



橋本仁美









 <路傍の草 円坐ひとひろ  開催要項 >>>>>>>



日時:5月27日木曜日 午後四時〜午後七時



開演:日没前



終演:日没後



会費:五千円



場所:天王寺新世界にて



影舞人・縁坐舞台守人 :橋本仁美 松岡弘子





お問い合わせ・ご参加の申込みは、

下記アドレス迄お願いいたします。



soumon.enza @ gmail.com 松岡

hitomi.hashimoto918 @ gmail.com 橋本







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