[SIJ: 21792] 「なきひととの面影とともに行きる」第三章 ご案内
premi
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2021年 11月 16日 (火) 12:28:07 JST
皆様へ。
今週末に迫りました表記円坐舞台はお陰様にて成立していますが、
広報がまだでしたので謹んでここにご案内させていただき、
主催の方々のご心境を綴った言葉を我々のあいだに遺したいと思います。
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
これは高杉晋作の辞世の句です。
享年27歳の人生でした。
後に晋作と関係の深かった野村望東尼が、
「住みなすものは 心なりけり」 と下の句を付け足したそうです。
しかし、下の句を付けると、「住みなす」 「心」 という時間要素が間延びして晋
作らしくないように感じます。
伊藤博文は晋作の生き様を、
「動けば雷電のごとく、発すれば風雨のごとし」
と表現しています。
晋作にとって 「おもしろきこともなき世をおもしろく」 とは、打てば響くような
行動と仕合、
命がけで対峙する人間関係がすべてであるような人生のことであろうと思います。
「心のことなど生きたあとで考えよ。心の持ちようをあれこれ考えて死霊とウロウロ
しておるうちに命の舞台が終わる」。
きくみるはなす円坐舞台は、「きみは舞台」。
舞台では対峙し、仕合い、生きて動いて、舞台を降りてから考えます。
有無一坐 橋本久仁彦(Sw.Deva Premi)
「なきひとの面影とともに生きる」 第三章にあたってのご案内
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【守人】橋本久仁彦さん
昨年三回行う予定だった講座のうちの最終回です。
各回に「あわい」という言葉を含むサブテーマをつけています。
「あわい」とは、「間」に似ていますが、「合ひ合ひ」のつづまったもので、
単に空間や距離ではなく、動きや状態を表すそうです。
「面影」が浮かび上がってくるのは、「あわい」においてではないでしょうか。
第一章で「人のあわい」に耳を傾け(未二観)、第二章で中野方という土地に触れな
がら
「空と土と身(「心」と離れていない体)のあわい」を感じ(影舞)、
第三章で、「ときのあわい」に円くなって坐して過ごします(円坐)。
「人」と「空間(空と土と身)」と「とき」はそれぞれが内包し合う関係にあると
思っています。
<第三章 ときのあわい>
【日時】2021年11月19日13時半〜21日16時
【会場】暮らしの宿 ときのうた (岐阜県恵那市中野方町3235番地)交通:自動車
可。
公共交通の場合、最寄り駅 JR恵那駅 からバス「中野方中切」にて下車 主催者が
お迎えにあがります。
【会費】39,000円※(二泊三日の宿泊費と初日の夕食、二日目の朝昼夕、三日目朝昼
食,おやつ、飲み物、保険料込。)
※お布団持参の方は1000円引き。
【申込・問合】 事務局の吉橋までメール下さい。 <mailto:gclasba @ gmail.com>
gclasba @ gmail.com
タイトル:「なきひとの面影とともに生きる」申し込み
本文 1.お名前と振り仮名 2.郵便番号・住所 3.連絡に用いるメールアドレ
ス 4.携帯番号 5.交通手段
6.食べられないもの 7.布団持ち込み可能か 8.ご参加にあたってお一言
【主催者よりご挨拶】
橋本久仁彦さんをお招きして、“聴くということ”からはじまって、“生きるという
こと”、
そして“死ぬということ”まで全人生を射程に入れて問い続けることを、
豊田市にお住いのふなさんこと吉橋久美子さんと共催しはじめてかれこれ7年ほどが
経ちました。
実に多くの方々と得がたい貴重な場を共にさせていただきました。
そこでくっきりと存在感をもって臨在してくるのはいつも“なきひと”でありまし
た。
同時に、しかし不思議なことに“なきひと”のことを語る方々の輪郭は、
語る前に比べより確かなものとして浮かび上がってきました。
“不思議なことに”と表現をしたものの、よく考えると当然のことのように思えま
す。
私たちは地上に見えている幹や葉や花ばかりに囚われ過ぎて、
地中にある根(roots)や“亡骸の層”とも言われる土のことをつい忘れがちです。
気の遠くなるほどの年月をかけてできた“亡骸の層”と、
そこに網の目のように張り巡らせた根があってはじめて地上に姿を顕すことができる
にも関わらず・・・。
つまり、いまある私たち自身は、いまは亡きひとたちを観ずして語りえないと言える
のではないでしょうか。
今回開催する「なきひとの面影とともに生きる」は“円坐”を中心に展開していきま
す。
“円坐”というものを説明するのは難しいですが、誤解を恐れずに言うならば、
「自身がなきひとの面影とともに生きている存在としてそこに坐り、互いの存在をよ
り明らかに照らし合う場」
と言えるのかもしれません。
この度も一期一会の場として、
お越しくださる方々と掛け替えのないひとときを過ごせることを心よりお待ち申し上
げます。
暮らしの宿ときのうた 長江賢太郎
高校生の娘を送り出す朝の玄関、今、いってらっしゃい、の毎日の言葉をかけまし
た。
この言葉の中に、「行く」と「来る」の二つの言葉が入っていることに気づいたのは
ずいぶん大人になってからでした。
無事に戻ってくるようにとの願いのこもった言葉なんですね。
けんけんと「一番見つめたいことをテーマにしよう」と決め、橋本さんをお招きして
場をひらかせていただくようになってから、
たくさんの方々が場にご参集くださり、人生と人生が音を立てて交わるような、しみ
じみと互いの存在がしみこみ合うような、
様々な場面に立ち会わせていただきました。
そして、恵那での開催を思うとき、参加はしていないけれども、立ち上がる面影もあ
ります。
Facebookで紹介した講座の写真を見て、恵那にある「素朴なお兄ちゃんがやってるう
どん屋さん」のこと、
おいしいパン屋さんのことを病床から教えてくれた岐阜の友人。
今の今、高校に行っている娘と、亡き友人とどちらの面影が強く迫ってきているかと
いうと、圧倒的に友人だったりします。
今はなき、逝った方々。肉体そのものは「来る」ことはできないけれど、何かの契機
でやってくる存在感の強さを思うとき、
私たちがなきひとの面影とともに生きているのは確かであり、ことさら言い立てるこ
とではないと思います。
でも、当たり前のことほど見逃しがちであり、ちゃんと見つめると究極に大事なこと
であることってよくあります。
行ってらっしゃいとこの世に送り出されたと思われる、やがて逝く当事者としても、
この人生に肚落ちしてるのか、
自分を囲むすべてのもの・ことに照らされながら、見つめる機会になると思っていま
す。
くらすば 吉橋久美子
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