[SIJ: 21651] 関ヶ原古戦場円坐と秋のお彼岸相聞茶堂と火曜日の山月記(鬼)ご案内
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2021年 9月 13日 (月) 03:11:27 JST
皆様へ。
関ヶ原古戦場円坐と、秋のお彼岸相聞茶堂と、今週火曜日の影舞山月記(鬼)をご案内いたします。
お蔭様で、毎月一度開催される相聞茶堂にまた新たな心境で、新たな方々と坐ることができます。
相聞茶堂のご案内文の中に
「ゆっくり円に坐しともに暮らしの彼此辺境にてご一緒いたします」
という一文があります。
僕はこの十年、円坐を日本人の精神文化の粋を受け継ぐ新たな芸能の形と了解して、その様式を整えてきました。
円坐舞台の質感を、自分の個人的人生の根元から体現し仕切ることのできる人物を「円坐舞台守人」と呼んでいます。
「円坐舞台守人」とはカウンセラーやワーカーや観察する者ではなく、円坐舞台という生のライブを生き切る「その人」のことです。
現在、「その人」が日本の各地で十名ほど、姿と輪郭をあらわにしつつあります。
今月の1日と2日に実施した岐阜県瑞浪市への有無の一坐の円坐舞台出稽古の最中、釜戸駅の近くで昼食をとれるお店を探した時のこと。
予定のお店が臨時のお休み、捜し求めた二番目のお店もお休み。コロナの影響でしょうか。
一坐の橋本仁美がその能力を生かして国道沿いに一軒開いている店にあたりを付け皆で探しながら歩くと、
「鉄板焼さとみ」という土地の風景に溶け込んだ地元のお店がありました。
この度の出稽古を主催された伊東智康氏がお店に入ると、坐っていた女性のお客様が彼の顔を見て驚き、泣き出されました。
お店のおかみさんは「伊東さん!伊東さん!」と何度も連呼されそのまま破顔喜びのひとときとなりました。
このお店は四年前に亡くなった伊東さんのお父様が毎日のように来ていたお店なのです。
伊東さんはその後長い入院生活を余儀なくされて社会や人間関係から遠ざかっていましたので、
よもやこのような歓迎をうけるとは思ってもいなかったのでした。
「さとみ」はおかみさんのお名前でした。
さとみさんは一坐8名のために別棟の立派な木造の部屋を勧めてくださって、貸切の広い客間でおいしいお好み焼きや定食を頂きました。
忙しく料理を運んでくださる手を休めて、さとみさんは伊東氏のお父様のことを目を細めて語ります。
「優しい人でしたよ、毎日来て皆と話していました。話すのがお好きで。ほんとにやさしかった」
僕は伊東さんのご自宅のご仏壇でお写真は拝見していましたが、こうして実際に生前のお父様とふれ合ったさとみさんから
直接お話しを伺うと、さとみさんの呼吸を通じてお父様の生きた感触が伝わってきます。
こうして我々もこのお店で伊東さんのお父様と出遇う事ができたのでした。
話を聞いていた伊東さんがふと、
「あの、そういえばもう4、5年も前になりますか、ここでコーヒーの回数券を父が買ってたのを思い出しました」。
目を丸くして聞いたさとみさんは「ちょっと待ってて!」と探しに行かれました。
待つことしばらく「ありました!ありました!伊東さん!これ!!」
4年前に、亡くなる直前のお父様が買われた11枚つづりのコーヒー回数券が今、息子の伊東氏の手に渡されたのです。
「ああ、これから僕もこの店に来ます。この回数券使わないと。。」
伊東さんのお父様は陶芸家でした。
伊東さんもその薫陶を受けて陶芸家となりました。
伊東さんを見て泣かれたお客様は4年前に伊東さんの展覧会に来られた方でした。
伊東さんのことを地元の方々は決して忘れていなかったのです。
それどころか亡きお父様が通い詰められた鉄板焼きの店「さとみ」は、
まるで今の今まで伊東さんが来るのを待っていたかのようでした。
我々の日常生活とは、そしてこの人生とは運命の巡る「円坐舞台」です。
円坐は縁坐。えにしの坐。
相聞茶堂のご案内文の
「ゆっくり円に坐しともに暮らしの彼此辺境にてご一緒いたします」
このたびの名残りの出稽古ドサ廻り瑞浪道中では、
「鉄板焼さとみ」に彼此辺境の縁坐舞台が立ち上がったのでした。
円坐舞台守人はこの彼此辺境縁坐舞台を司るために生涯守人稽古の道の上にあります。
先日守人道友のひとりが自身で円坐舞台の幟を立ち上げんと心境を綴ってくださいました。
その言葉を記して円坐舞台建立の寿ぎとさせていただきます。
「お酒を造るのに欠かせない麹。酒造りの要。
目に見える手足があるわけではないのに、彼らが生きてちゃんと関わらないとおいしいお酒はできない。
その感覚は自分の中にある円坐の感覚、味わいとどこか似ているように思います。
自分の中に目に見えないもの、ないのにある、あるのにない、そういうものに生かされている感覚は常にあって
円坐ではそれを色濃く感じる瞬間があるのでそれを軸に「自分が開きたい円坐」を探っている。見つけたいと思います」
彼此辺境に身を置き、生死の「本当」に参入する円坐守人の稽古は時に厳しいものです。
他者や社会と直接切り結ぶこともあります。
怖さに飲み込まれることも何度もあります。
しかし、たった一回きりのこの短い人生舞台で何か一つ「軸」を通して生きようと思うならば、
自分ひとりが感じる程度の「怖さ」は乗り越えて往きたいと思います。
我々は怖がりで臆病です。しかし隣に同じ道を歩く友がいてくれるので前進できます。
たとえ往く先に死が待つとしても、わが生涯の友とともに歩き続ける幸せは不滅です。
「その門の守り手(守人)であるホラティウスは言った。
地上のあらゆる人間に死は遅かれ早かれ訪れる。
ならば強敵に立ち向かう以上に尊い死があろうか」。
これはナチス・ドイツの侵攻を恐れ戦わずに頭を下げてヒトラーの言いなりになろうとする人々の間で
苦悩するチャーチル首相が口にしたとされる詩篇です。
2021年の秋九月、僕は身辺を清めて関ヶ原古戦場円坐に向かい、返す刀で新潟長岡へ名残りの出稽古ドサ廻りです。
皆様とよきいくさ、よき人生の仕合をともにつかまつらん。いざ。
(イザとは「居坐」円坐のことですね)
口承即興~円坐影舞 有無の一坐 橋本久仁彦(Sw.Deva Premi)
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件名: 秋のお彼岸 相聞茶堂 ご案内
みなさま
秋のお彼岸相聞茶堂のご案内です。
今年の秋の彼岸入りは、9月19日です。
9月19・20日は関ケ原古戦場円坐です。
関ケ原の打ち合わせを重ね、
いよいよ本番に向けて動き始めました。
残席1名です。
関心のある方はお問い合わせください。
関ケ原の戦いは、
史実であって現実ではないと、
仰る方も大勢いらっしゃいますが、
わたしはそうではないと考えます。
現代というこの時代や、自分の生き様をみつめる、
大きな舞台だと関ケ原古戦場円坐をとらえますと、
長い間隠されてきた様々な、
人や物や事との関係性もおのずと舞台に乗ってきます。
「戦う」というのは、「叩きあう」ということが語源です。
「戦う」というのは、もともと相手を死なす行為ではありません。
一方「争う」というのは、「荒らし合う」ということが語源です。
いま、ニュース報道や身近で起きている様々な紛争というものは、
相手の領域に勝手に侵入してそこにある物や建物や施設を壊して、
「奪う」行為です。
現代における戦争や身近に起こる紛争を、
果たして現代に生きる我々は自分の言葉で考えているでしょうか。
関ケ原古戦場円坐の翌日、旧暦望月8月15日は中秋の名月です。
秋の夜空に仰ぎ、何が幸せなのかしっかり味わいたいと思います。
秋のお彼岸の中日は引き続き石切にて有無の一坐の相聞茶堂です。
ゆっくり円に坐しともに暮らしの彼此辺境にてご一緒いたします。
どうぞ皆様のご縁を、一同お待ちしております。
松岡弘子
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◇ 開催日時:9月23日(木祝) 10〜17時
◇ 茶堂場所: 石切相聞亭
◇ 円坐守人:橋本久仁彦 松岡弘子 橋本悠
◇ 内容:未二観・影舞・円坐・円坐舞台
◇ 会費:一万円
◇ 申込:soumon.enza @ gmail.com 松岡
◇ ご挨拶:
相聞茶堂は、令和二年七月から三カ月間『浦堂 きらら』で、
九月からは『高槻町 うらら』の古民家へ移り開催して参りました。
令和三年一月より『生駒石切 相聞亭』にて開催いたしております。
秋のお彼岸は、関ケ原古戦場円坐の足跡を辿る予定です。
「相聞」とは、カウンセリングやコーチング、セラピーではありません。
知識による人から人への受け渡し教育でもありません。
誰もが乞い乞われる万葉の相聞歌のような、魂の呼応です。
「茶堂」とは、日本の喫茶店のルーツです。
四国の各地の村境にある小屋のことで、
生活をする中で世代を問わず語り合ったり
旅人をお接待する憩いの場であったり、
四国の各所には数多く残っています。
その「茶堂」を場所としてそこから呼び覚まされる生活の言葉、
智慧による願われた言葉が、我々に生まれる瞬間、生活に深く根ざした、
思議することあるべからず世界へと道がひらける、そんな、ちいさなわたしを通じて、
世界の歴史全体を包み込むような空間がこの世にひとつ、あればいいなあとおもいます。
歴史を越える心にふれるには、人に会うことでしか始まらないと思います。
人の語る言葉をそのまま聞くということが、たとえ発語がなくとも、
聞こえてくる言葉をそのまま聞くということがほとんど無くなりつつある現代だからこそ
語りの言葉には他者への敬意と土地への誇りも、同時に、不可欠だと痛感しています。
わたしたちはこれまで長い歴史の中でいのちの事を生命とは呼ばず、寿命と呼んで参りました。
寿というものをいただいて、命そのまま生きているわけですが、
現代は個人の生命を私有化してしまい、大変苦しんでいます。
寿命とは一体なんだろうかと思うのです。
生活に根ざした、向こうからの呼び声のような、魂の言葉のような、
寿命とはそんな願いのような気がしてなりません。
そこで「相聞茶堂」という見えない小屋の棟を上げ、その土地の舞台となり、
皆様と共に、この現代でいうお接待の形を試みてみたいと思います。
同時に、この願いというものは、
いつの世にも願われてきた「呼び声」でもある、という気がしています。
では、どうぞ宜しくお願い申し上げます。
松岡弘子
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