[SIJ: 22524] 長崎円坐舞台2022 〜有無ノ一坐ながさき出稽古〜ご案内

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2022年 10月 13日 (木) 17:09:11 JST


皆様へ。



先週開催された「北海道釧路・霧のものがたり円坐」では、

昼間はうす手の上着で快適な散歩ができるのに

夜は真冬の寒さに震える釧路港や白糠(しらぬか)の町で、

ご家族を含む14名の方々の生きる「様」とご縁をいただきました。



丹頂鶴やキタキツネが時折訪ねて来る静寂の大地での円坐でした。



円坐に深く参加される方々には特徴というか、生きる方向性、

生きる様(サマ)の深度というものがあるように思います。



もとよりこのような文字では伝えることが難しい、

貴重で興味の尽きない我々人間の生身の姿がそこにあるのですが、

他者と真摯に対峙し仕合う経験を経て読む時に、

鮮やかに立ち上がる文字や言葉の記録として、

以下のように記してみたいと思います。



円坐で出合う方々には、血縁や地域の結びつきを越えて往く姿勢があるようです。

無意識的な既成の「所属感」から脱出し、組織や教義などとの安易な一体感をよりど
ころにせず、

「わたしはある」という意識一つで生きて往くようです。



それは『私がある』という執着心とは異なり、

あなたのありさまに対して「わたしはある」と正面から静かに対峙する姿です。



それはこの社会の中に長年生きて来て、

安易に信じられるものや安楽な心のよりどころから離れた「単独者」の姿です。



僕は、円坐に深く坐る方々の中に、

人生の最期に差し掛かっても、他人が与える分かりやすい答に飛びつかず、

あえて寄る辺を持たずひとり坐る、独立した「わたし=自我」の輝きを見ます。



それは何か集団的なものに寄りかかって行かないがゆえの孤高の単独性です。



この孤高の単独性は、決して「高次の自我」や「ハイヤーセルフ」などではありませ
ん。

誰の中にも当たり前にある普通の「わたし」のことです。



「あなたの姿をみてるとわたしは腹が立つ!」というときの「わたし」です。



自分で自分の眼球が直接には見えないように「孤高のわたし」の輝きは本人には見え
ません。

しかし円坐舞台の「円」の中では互いに相手の姿に重なって映り、見えるのです。



その輝きがあるがゆえに、我々に取り憑いた闇の醜さも重なって見えます。



ありのままの光と闇がそこにある時、

現代人として孤高の意識を生きる我々は、十全に生きているという実感を瞬時に回復
するようです。



人生の酸いも甘いも噛み分けた経験豊富なご年配の方々が、

円坐を楽しみに日本各地へ来臨されることの一つの大きな理由であろうと思います。





今週は九州佐賀へ、11月の有無ノ一坐は長崎へ参ります。

関ヶ原の頃に創建された長崎で最も古い神社『八剱神社』(1568)にて

円坐影舞の奉納舞台を執り行います。



では、秋深き佐賀・長崎の地にてまたお目にかかりましょう。



有無ノ一坐 橋本久仁彦(Sw.Deva Premi)





ああ長崎に円坐舞台の音が鳴る〜橋本仁美さんとの二日間

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坂の上の古民家円坐〜橋本仁美さんと坐る

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場末の影舞倶楽部

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仁美ちゃんと庭先回りしよう〜円坐と影舞で巡る

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長崎円坐舞台2022 〜有無ノ一坐ながさき出稽古〜 募集開始】@長崎市

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