[SIJ: 22470] 新刊案内 キャサリン・マンスフィールドから百年 作品集(三)

Atimoda atimoda.atmo @ gmail.com
2022年 9月 19日 (月) 09:33:15 JST


ターラ瞑想センター、アティモダです。

プラバンの翻訳による、キャサリン・マンスフィールドの作品集(三)が出版されましたので、ご案内です。

キャサリン・マンスフィールドは亡くなる前の三ヶ月をフランスのグルジェフのもとで過ごしました。


キャサリン・マンスフィールド著、郷 尚文(Plavan)訳

『作品集(三)幸せの極み』



Amazonペーパーバック版 2100円、Kindle版1900円。

ホームページにストアへのリンクがあります。



http://gurdjieff.la.coocan.jp/





<紹介>



キャサリン・マンスフィールド作品集(三)にあたる本書には、『〈幸せの極み〉ほか』Bliss and Other Stories
という題名で一九二〇年に発行された短編集に含まれる全十四編のうち、作品集(一)に収録済みの『前奏曲』、『サンとムーン』、『風が吹く日』と、作品集(二)に収録済みの『ディル入りピクルス』を除いた全十編を収めた。

JE NE PARLE PAS FRANCAIS(私はフランス語が話せません)
小さな家庭教師さん
アルバムの一ページ
ピクチャーズ
レジナルド・ピーコック氏の一日
幸せの極み
あらわになりしこと
心理学
気というものがない男
エスケープ



※大判型(A4)ペーパーバック114ページ。縦書き二段組。標準的な単行本で約二倍のページ数に相当。

題名に含まれるBliss
は、かねてより〈幸福〉と訳されてきたが、誤解を避けるため、本書ではこれを〈幸せの極み〉とした。短編集に含まれる一連の作品を読み進めるにつれ、その違いはあからさまなものとなっていく。〈幸福〉もしくは〈幸せ〉はふつう人が守ろうとするもの、〈幸せの極み〉はその先にあって、〈幸福〉もしくは〈幸せ〉を守ることとは両立しがたいものである。

バーサは夢中で縦長の窓のところへと走った。
「ああ、次は何が起こるの?」と、彼女は叫んだ。
でも、梨の木は、変わることなくすてきで、
花をいっぱいに付け、静まり返っていた。

(『幸せの極み』より)

幸せはその極みへと向かうことを望むが、全面的な開花に向けての発展の動き、一線を越えての突破を求めるエネルギーの奔流、〈インターバル〉を越えてのオクターブの進展は、安心・安全へのこだわりと結び付いた幸せの幻影を脅かす。幸せはその極みに向かうことを求め、それを抑えていては真に幸せでありえないが、そこに向かうことに対して強い心のブレーキがかかる。一九二〇年に発行された本書のオリジナル版にあたる短編集の冒頭には、シェークスピアに由来する次のような言葉が掲げられていた。

危ないというのなら、風邪を引くのだって、
眠るのだって、飲むのだって危ない。
だがな、馬鹿殿様、人はまさにこの危険という
イラクサのなかから、安全という果実を摘み取る。

さらに先に進もうとする衝動と、それを押しとどめようとする心の動き、そこに生じる二つの立場、男と女の関係でどちらがどちらの立場を取るか、両者の間で生じる対立、衝突、選択の問題が、作品集全体としての主要なテーマである。
作品集(二)に収録済みの『ディル入りピクルス』は、そこでの選択がいかに人の運命を分けるかを、芥川龍之介が焼き直したことで日本でよく知られる元はといえばドストエフスキーに由来する物語をなぞるかたちで描いている。これはのちにグルジェフが、ひとつは上に向かいひとつは下に向かう「二つの河」の分岐点というたとえをもって、著作と講話のなかで扱ったテーマでもある。
『幸せの極み』ではいっぱいに花を付けた梨の木が象徴する、幸せがその極みへと向かおうとする運動は、作品集(二)に収録済みの『風の吹く日』で言及されたオクターブの展開にたとえるなら、生存の論理への従属のもとで強いブレーキがかかる〈ソ〉の音階を越えての、さらなる進展への衝動である。人間の体を垂直軸として見た場合、これは胸から昇ってくるものが、周囲を気にしての強い制限がかかる喉を抜けて、さらに上へと向かおうとする衝動であり、本書に収めた作品のなかでは、『レジナルド・ピーコック氏の一日』が具体的にこれを描いている。

「ええ、さきほどよりよくなりました。でも、思うに、
あなたには、もっと大きなことが可能です。私といっしょに
試みてください。こうなると、音楽とは、高みに向かおう
とする精神の反逆のようなものともなります。あなたも
それを感じないでしょうか?」。
それからふたりはいっしょに歌った。
ああ! 自分は理解したと、どれだけ彼女はしたことか。
「もう一度、歌ってみてもいいかしら?」

しかし、当然ながら、こうして高みに向かおうとする魂の衝動は、それに対抗する力によって、これは懲罰かと思えるほどの、むごいしっぺ返しを受けざるをえない。声楽家のピーコック氏の場合、奥さんが彼を痛めつけ、その羽根を折ることに余念がない。そうして彼女は彼女が思い描くところの幸せを守っているのである。
しかもそのうえ、このように胸から喉を抜けたエネルギーが、その反逆的な性格を最大限に発揮するのは、いまだ〈頭〉が無傷でそこに残され、そこに〈私が在る〉ときのみだから、社会すなわち生存の論理に従う人たちの集団は、これを妨げるためのさまざまな仕組みを用意している。これをめぐる〈首を切られるアヒルちゃん〉、〈頭がなくてもしばらく動けるアヒルちゃん〉のストーリーが含まれた、作品集(一)に収録済みの『前奏曲』は、本書のオリジナル版に相当する一九二〇年発行の短編集の冒頭を飾る作品だった。
本書に収めた作品のなかでは、『小さな家庭教師さん』がこれと似通ったテーマを扱っている。作品集(二)に収録済みの『子供っぽいけどとても自然なこと』を読んでいる読者は、主人公の女性の「マリーゴールドの色」をした燃えるような髪が、当人の魂にとっては幸いなことながら、それに伴う生きにくさを思ったら不幸なことに、いまだに頭のまともな働きが損なわれていない女の象徴であることを察するだろう。この作品は、そんなまだかなり若い女性が、次々に男たちから悪意ある仕打ちを受けるありさまを描いている。そのなかで、彼女が描いた異国への夢、他者への夢は、無残にじゅうりんされるわけだが、彼女が描いた幸せの夢がまったくの幻であったかというとそうではない。このような過程を通じて、人のなかにもしかして宿りうるなにかは、結実に向けて向かっていく。
するとこの、幸せがその極みへと向かおうとする過程は、その本質において、苦しみなのか?
そうでないわけがないと同時にそれだけであるわけがない。これも本書に収めた一連の作品の主要なテーマであり、それは冒頭に収録された長い作品、『JE NE
PARLE PAS FRANCAIS
(私はフランス語が話せません)』で導入され、『気というものがない男』で噛みしめられ、最後に収録された短い作品『エスケープ』で見事に締めくくられる。
本書のオリジナル版にあたる一九二〇年に発行された短編集は、夫であり、保護者、同志でありながら、同時に彼女の敵、彼女をじゅうりんする人物でもあり、一九二〇年の時点ではもうそのことがよくわかっていた相手であるジョン・ミドルトン・マリーに捧げられている。というと、まるでロマンチックな愛のゼスチャーみたいで、けっしてそうでないというわけではないが、捧げられたものの中身が中身であるから
……、つまりこれぞ「ディル入りピクルス」を差し出す、ドストエフスキーの原作での言い方にすると「ネギ」を差し出すということである……
そんな善意のふるまいをしたら、自分がそのことで恨まれるかもしれないのに……。
男と女の関係がうまくいかない物語ばかりと見えながら、永遠の愛、不滅の愛、無条件の愛をめぐる物語としても読まれうるものであり、そうとはいってもそうしたことをめぐる一般に普及した見方とはびっくりするほど違うのが興味深い。それゆえいずれも難解といえば難解な作品ばかりながら、その味を知っている人にとっては、どちらがリアルであるか、言うまでもない。

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Atimoda @ Osho Tara M. C.

http://www.osho-tara.site/

Plavan @ グルジェフ&グルジェフ・ムーヴメンツ

http://gurdjieff.la.coocan.jp/

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