[SIJ: 20361] 円坐の生と死〜ことばが舞台であるということ〜円坐舞台の成立16日間 ご案内

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2019年 10月 27日 (日) 00:56:41 JST


坐の皆様へ。



「ミニカウンセリングと未二観 集中講義と実習 未二観鼎談 全8回16日間」
は、お陰様で成立いたしました。

あと数枠受け入れ可能ですのでご縁のある方はお問合せください。日曜日のみ日帰り
8日間の参加も可能です。

参集の名乗りを挙げてくださった方々のお顔ぶれをしみじみと想起しておりますと、
クラスの表題を変更したくなりました。



改めてこのクラスの表題を「円坐の生と死」とさせていただきたいと思います。



先日、恵那の中野方で出会った方から以下のようなご感想を頂きました。



「意味や感情を大事にして共感し理解してもらったのではなく、言葉や情景を大切に
していただいたら、

結果的に自分やその人生をとてもとても大事にしてもらった様な気持ちになるだなん
て..」



「意味や感情を大事にして共感し理解して」もらうと、その聞き手に受け入れても
らったような感じがし、

その人とつながったような気がします。

「とうとう私をちゃんと見てくれる人に出会った」というような感じでしょうか。

そのような経験を続けていると「この人はまるで私を本当に愛してくれているみたい
だ」と思い込むこともあります。



僕はカウンセラーやセラピストとしての訓練を受ける中で、このような効果が相手の
中に生まれることを知った上で、

共感的応答や無条件の肯定的尊重や自己一致やその他多くの方法を身に付けてきまし
た。

これは人を「援助」するために必要なことだと思っていたのです。



その結果が僕の仕事としての「カウンセラー」や「セラピスト」という形になりまし
た。



しかし、今は、「それだけではこの人生を終わっていけないな」と感じています。



もし「心理学」にもとづいた意味や感情ではなく、昔に生きた人々から連綿と受け継
いできた

「言葉や情景を大切にしていただいたら」どんな人生になってゆくのでしょうか。



言葉とは出来事が起こる時空間のこと。情景とはこの私が「この私」として生きて
映っている世界のこと。



『長崎ぶらぶら節』という小説の中で、芸者の愛八さんが愛する人に自分が見立てた
着物を着せて、

「茶色がよく映えています。よく映っていますよ」と無上の幸せを感じる場面があり
ます。



我々がこの世界に生きているということは、我々は縁あってこの世界に「映って」い
る影像である、ということではないでしょうか。



僕はこの事象に「縁坐影舞」という名前を付けました。



我々がこの世界を生きているだけではなく、さらに彼岸に向けて死んで往くというた
めには、意味と感情だけでは届かないと思います。



この時空に映り込んでいるすべての存在が「こと・ば」になり、この世界が「この
私」が映り込んでいる「情景」となるとき、

話し手の「こと・ば」は舞台空間そのものとなってはるか遠くまで広がり、舞台上に
見える景色のすべてがその「こと・ば」を

発する人の「あらはれ」となります。



これが「未二観」です。



未二観で言う「ことばを辿る」とは、この舞台上を姿なき存在(ワキ⇒シビト)とし
てシテ(主役)とともに歩くことです。



次の言葉は縁坐舞台や未二観の高い気圧の中で聞いていただけばまったく違和感はな
いのですが、今は敢えて載せてみます。



<・・・「こと・ば」の映る世界の中(現世:うつしよ)では、すでに「死んだ」
方々が元気に存在し「影響」しているのだ。

僕はその影の働き、すなわち影響とともに仕事をしている。>



このような「こと・ば」が生きることのできる気圧を保つことで「縁坐舞台」が始ま
ります。

しかし、縁坐舞台におけるヒトガタは「巫女」や「憑依」ではありません。

自分自身を失わず、日常よりいくらか切実で静謐な意識をもって、姿なき存在(ワキ
⇒シビト)として舞台上に坐ります。



縁坐舞台や影舞は、円坐とともに行うことが多くなっており、僕の中ではひとつに融
け合っています。

円坐に坐衆として坐る時、我々はすでに目には見えぬ「影響」とともに坐っていま
す。

円(縁)とは我々がその影響と表裏一体であることを示す言葉で、見える円が
「円」、見えぬ円が「縁」です。



ゆえに「円坐に坐衆として坐る」という時は、もうすでに大事な仕事(影響=陰働
き)が成立した時です。

ですので円坐は、その影響の結果と結実を祝う祝賀であり、祭りとなります。

ただし、この大事な仕事が成立した「時」とは、生き死にのない気の抜けた「やさし
い」時間のことではありません。

円坐衆にとっては、本当に生きなければならない祭りの「時」の始まりであり、死な
なければならない「やさしい」安易な時間の終焉となります。



表題の「円坐の生と死」は、このような背景から掲げさせていただきました。

円坐守人とは、舞台空間としての円坐衆のことばを辿る「祝い人・祭り人」のことで
あり、

「祝い人・祭り人」とは、お客様と縁坐舞台のあいだに、時間と無時間のあいだに、
此岸と彼岸のあいだに坐る「円坐守人」のことです。



こうして、今回の「カウンセリングと未二観」石切クラスに向けて「円坐舞台」とい
う名乗りが立ち上がり、

円坐守人は円坐舞台という目に見える「生き死にの舞台の守人」となりました。



この名乗りを伝えたい友が岐阜の瑞浪市に住んでいます。

詩人として生きる彼が送ってくださった日々の「こと・ば」の中から「歩き方につい
て」の一文をここに掲げさせていただき、

既に届いていた彼からの祝賀として深謝とともに受け取らせていただきます。





「歩き方について」



脚の運び方

腕の振り方

重心は?

バランスは?



歩き方を考えていた

どんな風に歩けば

楽に よりよく 遠くまで

歩けるのかいつも考えていた



それはもう

身体各部

微に入り細に渡って

気をつけ歩き続けた



徹底した挙句 ある日

スポン と抜けた

普通に歩いたら

よかったのだった







これをもって、このたび表題の改まりました「円坐の生と死〜言葉が舞台であるとい
うこと〜円坐舞台の成立16日間」の

ご案内とさせていただきます。



よろしくご同道の程お願い申し上げます。





                 円坐・未二観・縁坐影舞  舞台守人 橋本久
仁彦(Sw.Deva Premi)







<円坐の生と死 旅程>



第一回11月9・10日

第二回12月14・15日

第三回2020年1月18・19日

第四回     2月1・2日

第五回     3月21・22日

第六回     4月25・26日

第七回     5月23・24日

第八回     6月27・28日





*2月が2日に変更になっています。ご注意くださいませ。



*参加条件など詳細はお問い合わせください。





                       以上。

















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